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'''コンラッド・シュニッツラー'''(コンラート・シュニッツラー, '''''Conrad Schnitzler''''', [[1937年]] - [[2011年]][[8月4日]] ) は、[[ドイツ]][[デュッセルドルフ]]出身のアーティスト]]である。
 
== 人物 ==
[[デュッセルドルフ]]出身。父親はオーケストラ奏者で、ときどき作曲をすることもあった。しかし、父親から音楽を教わることは一切なかったため影響は受けておらず、後々かえってそれがよかったと本人は回想している。
 
1414歳のときに[[カールハインツ・シュトックハウゼン]]の[[電子音楽]]を初めて聞き、多大な影響を受けた。また、その他にも[[ジョン・ケージ]]などから影響を受けている
 
音楽や音響芸術が活動の中心となったのは[[1960年代]]に[[ベルリン]]に移り住んでからのことだ。それ以前は彫刻や絵画([[ドローイング]])・写真などをやっていて、[[ファインアート]]の世界ではちょっと知られた存在だった。[[1961年]]に[[ヨーゼフ・ボイス]]がデュッセルドルフ芸術アカデミーの彫刻科教授になったときに、クラスに入った最初の生徒となった逸話は、何かにつけて取り沙汰されている。しかし、在籍期間が短かったこともあって、影響を受けることはなかったとシュニッツラー本人は語っている
 
[[1969年]]にZodiak - Free Arts Labというクラブを数人の仲間と設立後、[[タンジェリン・ドリーム]] ([[1969年]]~[[1970年]]) と[[クラスター (バンド)|クラスター]]([[1970年]]~[[1971年]]) といった[[西ドイツ]](当時)・[[ベルリン]]の実験的な[[クラウト・ロック]]のグループの創始メンバーとなったが、それ以降はソロで活動を続ける。[[1972年]]に[[シンセサイザー]]EMS Synthi Aが発売されることを聞くと、わざわざ[[イギリス]]まで渡り、購入した。(その際、[[クラフトワーク]]の分と併せて2台購入した逸話が残されている。)それ以降、[[電子音楽]]や電子音響の作品を制作しており、エレクトロニック・ミュージックの重要人物の一人だと言われている。[[2009年]]末時点で、彼は実に800以上の作品をリリースしているが、その多くが自主制作によるものである。その中には、先述の電子音響の他、前衛的な[[現代音楽]]や[[ジャズ]]的要素を持つ電子音楽、[[インダストリアル]]、さらに[[テクノポップ]]までもが含まれる。
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彼は、音楽家ではなく、インターメディア・ライフ・アーティストを自称している。他の多くの音楽家達と異なる点は、彫刻、絵画、グラフィック・デザイン、映像といった他のメディアで培った経験や手法を、音楽や音響作品にも応用している点である。また、[[パフォーマンスアート]]を行うこともあったが、こうした芸術活動の根底には、[[フルクサス]]運動からの影響がある。
 
[[映画]]『[[みえない雲]]の監督などで知られるグレゴール・シュニッツラーは彼の息子である。
 
2011年8月4日、胃がんのために死去<ref>[http://www.fancymoon.com/mrs/ 謹んでお知らせいたします] コンラッド・シュニッツラー公式サイト 2011年8月6日告示</ref>。74歳没。
 
== 脚註 ==
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== 外部リンク ==
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[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:1937年生]]
[[Category:2011年没]]
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