「フリードリヒ・フランツ3世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
3行目:
 
== 略歴 ==
[[1851年]][[3月19日]]、フリードリヒ・フランツ2世とその最初の妃であった[[アウグステ・ロイス・ツー・ケストリッツ|アウグステ]](1822年 - 1862年、ロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ63世の娘)の第一子として[[ルートウィヒスルスト]]([[メクレンブルク=フォアポンメルン州]])で生まれた。異母弟に[[オランダ]]女王[[ィルヘルミナ (オランダ女王)|ィルヘルミナ]]の[[王配]]である[[ハインリヒ・ツー・メクレンブルク|ハインリヒ]](オランダ語名ヘンドリック)がいる。
 
[[1879年]][[1月24日]]に[[サンクトペテルブルク]]でロシアの[[ミハイル・ニコラエヴィチ]]大公([[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[ニコライ1世]]の皇子)の娘[[アナスタシア・ミハイロヴナ|アナスタシア]](1860年 - 1922年)と結婚した。結婚生活は不幸なものだったが、2人の間には[[アレクサンドリーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン|アレクサンドリーネ]](1879年 - 1952年、[[デンマーク]]王[[クリスチャン10世 (デンマーク王)|クリスチャン10世]]妃)、[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ]]、[[ツェツィーリエ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン|ツェツィーリエ]](1886年 - 1954年、[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇太子[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム]]妃)の12女が生まれた。
 
フリードリヒ・フランツ3世は[[1897年]][[4月10日]]に療養先の[[カンヌ]]で死去した( 転落死 )。大公位は長男の[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]が嗣いだが、まだ幼かったため[[1894年]]から[[摂政]]となっていた同母弟[[ヨハン・アルブレヒト・ツー・メクレンブルク|ヨハン・アルブレヒト]]が引き続き政務を執った。
 
{{先代次代|[[メクレンブルクの統治者一覧|メクレンブルク[=シュヴェリーン]大公]]|[[1883年|1883]] - [[1897年|1897]]|[[フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ2世]]|[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ふりいとりひふらんつ3}}