「本間千代子」の版間の差分

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昭和32年([[1957年]])、姉明子と同じ三鷹台にある[[立教女学院中学校・高等学校|立教女学院中等部]]に入学。[[東映映画]]の音楽を担当していた義兄冨田勲の勧めで撮影所に出入りするようになり山崎所長の知遇を得て、昭和33年([[1958年]])8月東映児童研修所の第1期生となる。
 
すぐに[[堀内甲]]監督の児童向け映画『六人姉妹』に出演、この映画は翌年教育映画最優秀作品賞を受賞、同時に東映大川社長から顕彰される(教育映画は『くつした』『空をかける友情』など7本に出演)。研修所を卒業し東映児童劇団に進み、昭和36年([[1961年]])11月にクランクインした[[高倉健]]主演のアクション映画でのちにシリーズ化される『恋と太陽とギャング』に[[JJサニー千葉|千葉真一]]の妹役留美子役で本格デビュー。その4ヵ月後『歌う明星・青春がいっぱい』に[[渥美清]]の妹役として出演し、清純派としての映画スターの地位を確立する。昭和38年([[1963年]])9月タクシー乗車中に交通事故に合い額を切るなどで10日間入院するがその後復帰。
 
昭和39年([[1964年]])には日本映画製作者協会の第九回エランドール賞新人賞を[[松本幸四郎 (9代目)|市川染五郎]]や[[松原智恵子]]などと共に受ける。この頃人気は過熱し,爆破狂[[草加次郎]]を名乗るものから脅迫文が届き警察沙汰になって世間を驚かせた(草加次郎事件は未解決)。