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|選手名 = 杉浦 忠
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[愛知県]][[西加茂郡|西加茂郡挙母町]](現
|生年月日 =
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1935|9|17|2001|11|11}}
|身長 = 176
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|ドラフト順位 =
|初出場 = 1958年4月5日
|最終出場 = 1970年10月10日<br />1971年3月25日(引退試合)
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[愛知県立豊田西高等学校|愛知県立挙母高等学校]]
* [[立教大学硬式野球部|立教大学]]
* [[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]] (1958 - 1970)
|経歴補足題 = 監督・コーチ歴
|経歴補足 = <nowiki></nowiki>
* [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] (1974 - 1977)
* 南海ホークス<br />[[福岡ソフトバンクホークス|
|選出国 = 日本
|選出年 = {{by|1995年}}
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|選出方法 = 競技者表彰
}}
'''杉浦 忠'''(すぎうら ただし、[[1935年]]
== 経歴 ==
=== 現役時代 ===
[[愛知県立豊田西高等学校|挙母高校(現在の豊田西高校]])から[[立教大学]]へ入学。大学では同期の[[長嶋茂雄]]
もともと[[オーバースロー]]投手であったが、大学2年の時に肩を故障して[[サイドスロー]]([[アンダースロー]]と呼ばれることなどもある)に転向した。このため、その投球フォームは横から投げつつも肘から先の使い方が上から投げていた頃そのままであり、これがボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に[[股関節]])がサイドスロー投法にはまり、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。「手首を立てたアンダースロー」といわれたフォーム(ベンチからでも手首をスナップさせる「ピシッ」という音が聞こえたという)は当時シーズン30勝を挙げた巨人の[[大友工]]を手本にしたといわれている。[[東京六大学野球連盟|東京六大学リーグ]]通算36勝(立教OBとして最多)の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。早大相手にノーヒットノーランも達成した。この間先輩のシゴキに耐えかねて長嶋と共に合宿所を抜け出し、杉浦の地元・愛知の[[中日ドラゴンズ]]の球団事務所を訪問、売込みを図ったものの関係者に諭されて帰還するという一幕もあった。
入団後は新人ながら[[開幕投手]]を務め、東映を相手に勝利投手となる<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09april/KFullNormal20090401156.html 明暗クッキリ 長嶋の同級生杉浦忠 大量援護でプロ初勝利]</ref>。1年目は27勝を挙げて[[最優秀新人 (野球)|新人王]]を獲得。2年目の
その後もエースとして活躍したが、連投による右腕の血行障害の影響<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10may/KFullNormal20100501239.html 杉浦忠、入団4年目で100勝も忍び寄っていた病魔]</ref>や、[[野村克也]]の反対を押し切って[[シンカー・スクリューボール|シンカー]]を覚えたことで持ち味を殺してしまい、徐々に成績は下降していく(スライダーを勧めようとしていた野村は後年、自著の中でもしシンカーを覚えていなかったらもっと勝てていたと、説得に折れた事への後悔の念を綴っている)。長いイニングが投げられなくなった選手生活の後半は主に抑えの切り札として活躍した。
=== 引退後 ===
現役引退後は、[[毎日放送]]の[[解説者]]を経て、立教の大先輩[[西本幸雄]]に請われて{{by|1974年}}から{{by|1977}}まで[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]の投手コーチ
ホークス退団後は、[[九州朝日放送]](KBC)の解説者を務め、「仏の杉浦、鬼の[[河村英文|河村]]」で人気を博した。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーは'''マイクの前のジェントルマン'''。また後年は球界の紳士とも紹介されていた。
また2001年より[[プロ野球マスターズリーグ]]、大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。2001年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた[[札幌市]]内のホテルで[[急性心筋梗塞]]により急逝した。[[享年]]66。[[浄土真宗]][[本願寺派]]堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。
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野村氏が著書の中で頻繁に取り上げているエピソードの1つに、ある年のオールスター戦でベンチが一緒になった際、野村氏が研究していた稲尾の癖を杉浦が面白半分に喋ってしまい、翌シーズンから稲尾が癖を直して対戦して来たため、新たに研究し直さなければならなくなったというのがある。
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{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2009年11月}}▼
* [[1948年]]オフ、[[別所毅彦]]が南海から巨人に移籍([[別所引き抜き事件]])。その経緯を「なんと汚いんだ」と思うようになって以来、アンチ巨人になったという。▼
*南海ホークスとして最後の[[プロ野球ドラフト会議]]となった[[1987年]]に早くから地元大阪出身のスター候補生ということで[[PL学園高校]]の[[主将]]で高校野球史上最高の[[遊撃手]][[立浪和義]]を獲得する方針を固めていたが[[星野仙一]]監督率いる中日と競合し、杉浦はクジを外した(再指名で[[Honda熊本硬式野球部|本田技研熊本]]の左腕[[吉田豊彦]]獲得)。翌年のダイエーホークスとして初の同会議では地元福岡の[[柳川高校]]出身で[[プリンスホテル硬式野球部]]及び[[ソウルオリンピック野球日本代表]]の主砲[[中島輝士]]を1位指名したが[[近藤貞雄]]新監督率いる[[日本ハムファイターズ]]に奪われ、同じく地元の[[福岡第一高校]]の左腕で夏の甲子園準優勝投手[[前田幸長]]を2位で指名する予定が[[有藤道世]]監督率いる[[ロッテオリオンズ]]が1位指名し獲得に失敗している。翌年の[[東京ドーム]]での[[開幕戦]]でプロ初打席中島に[[サヨナラホームラン]]打たれ敗北(同試合で一軍初打席[[広永益隆]]が杉浦の期待に応えダイエー球団第一号本塁打)▼
* 打者として対戦してみたい投手は自分自身。自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいからと理由を語っていた。▼
* [[金田正一]]、[[村山実]]、[[藤田元司]]など華やかに脚光を浴びる[[セ・リーグ]]の投手には強い対抗心を持っていた。杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は彼らへの対抗心から生まれたという。▼
* 南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)'''行ってまいります!'''」とのスピーチを残した。▼
* ホークス福岡移転後初優勝翌日のテレビ中継では、杉浦は[[副音声]]での解説を担当。[[和田安生]]アナウンサー(当時)と「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と話している。▼
* [[カラオケ]]の[[十八番]]は、[[志賀勝]]の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。▼
* 自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBC解説者として福岡で解説を行っていた時期も、[[大阪府]][[堺市]]の自宅から通っていた。なお、この自宅は杉浦の死後の2010年12月25日に全焼している<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101225-OYT1T00812.htm?from=rss&ref=rssad "南海の名投手・故杉浦忠さんの自宅全焼"] 読売新聞 (2010年12月25日)</ref>。▼
== 詳細情報 ==
{| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}}
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1958}}
|rowspan="13" style="text-align: center;"|[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]
|53||34||14||1||3||27||12||--||--||.692||1187||299.0||235||11||72||4||'''13'''||215||4||0||91||68||2.05||1.03
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1959}}
|69||'''35'''||19||9||'''9'''||'''38'''||4||--||--||'''.905'''||1377||371.1||245||17||35||2||'''11'''||'''336'''||2||0||67||58||'''1.40'''||0.75
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1960}}
|57||29||'''22'''||4||'''8'''||31||11||--||--||.738||'''1284'''||'''332.2'''||266||28||44||5||5||'''317'''||1||0||85||76||2.05||0.93
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1961}}
|53||20||12||1||1||20||9||--||--||.690||946||241.2||202||24||31||3||10||190||1||0||85||75||2.79||0.96
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1962}}
|43||18||6||1||1||14||15||--||--||.483||705||172.2||165||12||36||4||5||96||1||0||68||59||3.07||1.16
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1963}}
|51||24||9||1||3||14||16||--||--||.467||990||252.2||217||30||46||5||1||156||1||0||86||74||2.63||1.04
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1964}}
|56||33||9||1||3||20||15||--||--||.571||1100||270.2||253||'''28'''||52||4||9||162||1||0||103||91||3.02||1.13
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1965}}
|36||8||3||0||0||8||1||--||--||.889||429||111.1||85||10||16||0||2||82||0||0||27||27||2.19||0.91
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1966}}
|27||0||0||0||0||2||4||--||--||.333||191||51.0||42||6||3||0||0||39||0||0||16||14||2.47||0.88
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1967}}
|45||4||0||0||0||5||5||--||--||.500||384||98.1||82||9||16||2||2||68||0||0||29||26||2.39||1.00
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1968}}
|41||7||0||0||0||5||6||--||--||.455||457||111.0||100||8||32||6||4||53||1||0||39||33||2.68||1.19
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1969}}
|30||5||1||0||0||2||7||--||--||.222||268||65.1||68||8||16||1||3||33||0||0||33||30||4.15||1.29
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1970}}
|16||0||0||0||0||1||1||--||--||.500||141||35.2||28||4||10||1||2||9||0||0||13||11||2.75||1.07
|-
!colspan="2"|通算
|577||217||95||18||28||187||106||--||--||.638||9459||2413.1||1988||195||409||37||67||1756||12||0||742||642||2.39||0.99
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
=== タイトル・表彰
* [[最優秀選手 (野球)|最優秀選手]]:1回(1959年)
* [[最優秀新人 (野球)|新人王]] (1958年)
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* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り (1995年)
* 日本シリーズ最高殊勲選手:1回(1959年)
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:6回(1958年 - 1961年、1964年、1965年)▼
* 54.2イニング連続無失点 (1959年9月15日 - 10月20日)▼
===
* 初登板・初勝利:1958年4月5日、対[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]1回戦([[駒澤野球場]])
* 100勝:1961年5月6日、対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]5回戦([[平和台野球場]])
* 150勝:1964年5月26日、対[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]14回戦([[大阪球場]])
=== 背番号 ===
* '''21''' (1958年 - 1970年)
* '''70''' (1974年 - 1977年)
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== 監督としてのチーム成績 ==
{|class="wikitable" style="text-align: right;"
!
|-
|
|-
|
|-
|
|-
|
|-
!colspan="3"|通算:4年
|520||223||271||26||.451||colspan="5" style="text-align:center"|Bクラス4回
|}
▲== 監督通算成績 ==
▲{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2009年11月}}
▲* [[1948年]]オフ、[[別所毅彦]]が南海から巨人に移籍([[別所引き抜き事件]])。その経緯を「なんと汚いんだ」と思うようになって以来、アンチ巨人になったという。
▲*南海ホークスとして最後の[[プロ野球ドラフト会議]]となった[[1987年]]に早くから地元大阪出身のスター候補生ということで[[PL学園高校]]の[[主将]]で高校野球史上最高の[[遊撃手]][[立浪和義]]を獲得する方針を固めていたが[[星野仙一]]監督率いる中日と競合し、杉浦はクジを外した(再指名で[[Honda熊本硬式野球部|本田技研熊本]]の左腕[[吉田豊彦]]獲得)。翌年のダイエーホークスとして初の同会議では地元福岡の[[柳川高校]]出身で[[プリンスホテル硬式野球部]]及び[[ソウルオリンピック野球日本代表]]の主砲[[中島輝士]]を1位指名したが[[近藤貞雄]]新監督率いる[[日本ハムファイターズ]]に奪われ、同じく地元の[[福岡第一高校]]の左腕で夏の甲子園準優勝投手[[前田幸長]]を2位で指名する予定が[[有藤道世]]監督率いる[[ロッテオリオンズ]]が1位指名し獲得に失敗している。翌年の[[東京ドーム]]での[[開幕戦]]でプロ初打席中島に[[サヨナラホームラン]]打たれ敗北(同試合で一軍初打席[[広永益隆]]が杉浦の期待に応えダイエー球団第一号本塁打)
▲* 打者として対戦してみたい投手は自分自身。自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいからと理由を語っていた。
▲* [[金田正一]]、[[村山実]]、[[藤田元司]]など華やかに脚光を浴びる[[セ・リーグ]]の投手には強い対抗心を持っていた。杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は彼らへの対抗心から生まれたという。
▲* 南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで「長嶋君ではありませんがホークスは不滅です。ありがとうございました、(福岡に)'''行ってまいります!'''」とのスピーチを残した。
▲* ホークス福岡移転後初優勝翌日のテレビ中継では、杉浦は[[副音声]]での解説を担当。[[和田安生]]アナウンサー(当時)と「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と話している。
▲* [[カラオケ]]の[[十八番]]は、[[志賀勝]]の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。
▲* 自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBC解説者として福岡で解説を行っていた時期も、[[大阪府]][[堺市]]の自宅から通っていた。なお、この自宅は杉浦の死後の2010年12月25日に全焼している<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101225-OYT1T00812.htm?from=rss&ref=rssad "南海の名投手・故杉浦忠さんの自宅全焼"] 読売新聞 (2010年12月25日)</ref>。
== 出演番組 ==
;※野球解説者として出演していた番組
*[[MBSタイガースライブ|毎日放送ダイナミックナイター]]
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== 脚注 ==
{{
== 関連項目 ==
|