「タマーラ・カルサヴィナ」の版間の差分

1885年、[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]に生まれる。帝室バレエのダンサーであった父プラトン・カルサヴィンの影響で幼少時からバレエダンサーを志し、家族ぐるみでつきあいがあった元ダンサーのマダム・ジューコヴァ、ついで帝室バレエを引退した父親からバレエのレッスンを受け<ref>当初、陰謀が渦巻くバレエ界の裏側を知る父はダンサーになることには反対であった（『 ({{Harvnb|劇場通り』： 43）|1993|p=43}})。</ref>、[[1894年]]に帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校の入学試験に合格した<ref>入学にあたっては姿勢や身のこなし、医師の診断のほか、音感、読み書き、算数のテストに合格する必要があり課され、合格できるのは少数であった（『 ({{Harvnb|劇場通り』： 59）|1993|p=59}})。</ref>。帝室舞踊学校では上級に進級した際に[[パーヴェル・ゲルト]]のクラスでバレエを学び<ref>『{{Harvnb|劇場通り』:|1993|p=88}}.</ref>、規定年齢の18歳に満たない17歳のとき首席で卒業した<ref>{{Harvnb|劇場通り|1993|p=132}}.</ref>。その直前の[[1902年]]5月にマリインスキー劇場でデビューを果たした<ref>{{Harvnb|劇場通り|1993|p=139}}.</ref>。帝室バレエ団には[[コール・ド・バレエ]]（群舞）を経ずにコリフェとして入団し<ref>帝室バレエでは、コール・ド・バレエ、コリフェ、第2ソリスト、第1ソリスト、バレリーナの順に階級が上がっていく ({{Harvnb|劇場通り|1993|p=142}})。</ref>、ロシアバレエ界の重鎮[[クリスティアン・ヨハンソン]]や[[エンリコ・チェケッティ]]らに指導を受け、三年目には第2ソリストとなった<ref>{{Harvnb|劇場通り|1993|p=159}}.</ref>。

[[日露戦争]]中の[[1905年]]、[[血の日曜日事件 (1905年)|血の日曜日事件]]が[[ロシア第一革命]]に発展し、いたるところで自由を求める機運が高まると<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=182}}.</ref>、帝室バレエ団においてもダンサーたちの間に芸術の自治や給与引き上げなどを求める運動が起こり、選出された[[ミハイル・フォーキン|フォーキン]]、パヴロワ、カルサヴィナなど12人の代議士らは劇場の支配人テリャコーフスキーに対して嘆願書を提出した<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： 183-186|1993|pp=183–186}}.</ref>。この運動は団員内に深い亀裂を生じさせ、このためにカルサヴィナと親交が深かった[[セルゲイ・レガート]]は喉を切って自殺した<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=187}}.</ref>。結局ダンサーたちの要求は通らなかったが、カルサヴィナらの処分はストライキなどに対する訓告のみで、その後の活動には影響しなかった<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=189}}.</ref>。

これより数年前、カルサヴィナはフォーキンと恋愛関係にあったが、カルサヴィナの母親が反対したために結婚は実現せず、[[1907年]]に財務省に勤めるワシーリイ・ムーヒンと結婚した<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上136）136}}.</ref>。

[[File:Theatre du Chatelet. Saison russe. Mai-Juin.jpg|thumb|180px|（参考）19091909年のバレエ・リュスのポスター。セローフが描いたパブロワ]]

[[File:Tamara Karsavina Petrushka 1911.jpg|thumb|200px|『ペトルーシュカ』の「踊り子」役を演じるカルサヴィナ]]

[[1906年]]以来、[[パリ]]でロシアの絵画や音楽を紹介し続けた'''セルゲイ・ディアギレフ'''は、[[1909年]]に[[シャトレ座]]を舞台とするバレエの公演を企画した。この、事実上の'''[[バレエ・リュス''']]の旗揚げ公演は、夏季休暇中のマリインスキー劇場のダンサーを借りる形で行われ、パヴロワやフォーキン、ニジンスキーとともにカルサヴィナもこれに参加した。この時にパリの町中に貼られたポスターにはセーロフ画によるパヴロワの姿が描かれており（右図参照）、帝室バレエ団のプリマ・バレリーナであったパヴロワは公演の目玉とされていた<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上157）157}}.</ref>。しかし、彼女は[[アドルフ・ボルム]]や[[ニコライ・レガート]]らと小さな一座を率いて東欧を巡演中であったため、1ヶ月にわたったバレエ･リュス公演のうち、参加できたのは後半のみであった。

パヴロワを欠いた状態で始まったバレエ・リュスの公演最初の作品『'''アルミードの館'''』において、カルサヴィナは「主人公アルミードの友人」という脇役を演じたが<ref>{{Harvnb|藤野（1982： 100）|1982|p=100}}.</ref>、バルディナ、ニジンスキーとともに踊った本筋と関係のない途中のパ・ド・トロワがパリの聴衆に大うけし高く評価され<ref>{{Harvnb|バックル（1983： 161）|1983|p=161}}.</ref>、翌日の『ル・フィガロ』紙の第一面にはニジンスキーとカルサヴィナを描いたデッサンが大きく掲載された<ref>{{Harvnb|バックル（1983： 164）|1983|p=164}}.</ref>。また、公演期間の途中に『アルミードの館』の主演バレリーナであったヴェーラ・カラーリが団員と駆け落ちするという事件が起こったため、カルサヴィナは急きょ代役としてアルミードを演じることとなり、このことでますます名声は高まった<ref>{{Harvnb|藤野（1982： 102）|1982|p=102}}.</ref>。パヴロワがパリに到着した頃には、すでにカルサヴィナは定冠詞付きの「'''ラ・カルサヴィナ'''」としてパリの人気を独占しており<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 46）|2008|p=46}}.</ref>、公演終了後にはカルサヴィナのもとに[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[オーストラリア]]など、各国の劇場からオファーが殺到した<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上175）175}}.</ref>。

翌[[1910年]]、[[ガルニエ宮|パリ・オペラ座]]で行われた公演ではパヴロワを主役とする『[[ジゼル]]』と『[[火の鳥 (ストラヴィンスキー)|火の鳥]]』がプログラムの中心に据えられる予定であったが、パヴロワが[[ロンドン]]の[[パレス劇場]]との契約を優先させたため、いずれの演目もカルサヴィナが[[タイトルロール]]を演じることになった（一説にはパヴロワが『火の鳥』の音楽を理解できず、嫌悪したからであるとされる<ref name=RB184>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上184）184}}</ref>）。『ジゼル』がフランスで上演されるのは実に[[1868年]]以来のことであったが<ref name=RB184>< /ref>観客の反応は芳しくなく<ref>ブノワはジゼルの演技を観て、カルサヴィナはパヴロワを越えたと感じた（ ({{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上199））199}})。</ref>、注目されたのはむしろ新作の『'''火の鳥'''』（音楽：[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]、振付：フォーキン）の方であった。作曲者のストラヴィンスキーはキャストについて、パヴロワが「火の鳥」役にふさわしく、カルサヴィナには王女の役が適していると考えていたが、実演でのカルサヴィナの完璧な踊りに満足した<ref>『{{Harvnb|ストラヴィンスキー自伝』： |1981|p=40}}.</ref>。カルサヴィナの「火の鳥」は、パヴロワの「[[瀕死の白鳥]]」に匹敵する当たり役だとされている<ref>『{{Harvnb|劇場通り』：|p=341}}, 341（ケイコ・キーンによる解説）。</ref>。

この2年間の成功により、ディアギレフはバレエ･リュスを常設のバレエ団とすることを決意し、団員を集めた。帝室バレエ団を退団してバレエ・リュス専属の踊り手となる者も多かったが、カルサヴィナは1910年に帝室バレエ団のプリマ・バレリーナに昇格しており、この身分を保持したままでバレエ・リュスに参加した。2つのバレエ団を掛け持ちすることが可能だったのは、帝室バレエ団が勤続年数が短いカルサヴィナの収入を保証する目的で、プリマバレリーナでありながら身分をゲスト扱いとし、自由に休暇を取ることを認めたためである<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=252}}.</ref>。

バレエ・リュスでのカルサヴィナは[[第一次世界大戦]]までに、『[[薔薇の精]]』（[[1911（1911年]]）の乙女役、『[[ペトルーシュカ]]』（同年）の踊り子役<ref>カルサヴィナは、踊り子役が大いに気に入り、ストラヴィンスキーに対して、永久にその役をやめないと誓った（『 ({{Harvnb|ストラヴィンスキー自伝』： 50）|1981|p=50}})。</ref>、『[[タマーラ]]』（[[1912（1912年]]）のタイトルロール、『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』（同年）のクロエ役、『[[遊戯 (ドビュッシー)|遊戯]]』（[[1913（1913年]]）の少女役、『[[サロメの悲劇]]』（同年）のタイトルロールなど、多くの作品に出演した。'''ニジンスキー'''はこの時期のよきパートナーであり、『薔薇の精』、『ペトルーシュカ』などで息のあった演技を披露した。

[[Image:Karsavina and Vladimirov.jpg|thumb|200px|『[[白鳥の湖]]』でオディールを演じるカルサヴィナ]]

[[1914年]]、カルサヴィナはその年のバレエ･リュスの公演を終えて帰国しようとしたが、ロシアの直前に来たところで第一次世界大戦が勃発したため、ドイツから[[オランダ]]やイギリスを経由し、苦労してペテルブルクへ戻った<ref>ディアギレフに引き留められて帰国を1日遅らせたことが災いした（『 ({{Harvnb|劇場通り』： 286）|1993|p=286}})。</ref>。以後5年間はバレエ・リュスでの活動は不可能となり、マリインスキー劇場での活動に専念することになった。この間、私生活においては最初の夫ムーヒンと離婚し、[[1915年]]にイギリスの外交官ヘンリー・ブルースと再婚して一児をもうけた<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=下94）94}}.</ref>。

大戦中の[[1917年]]、[[ロシア革命]]が起こって[[ロマノフ朝]]のロシア帝国は崩壊したが、あらたに発足した革命政権は芸術家を保護する政策をとり<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=305}}.</ref>、カルサヴィナはダンサーの委員会の長となってバレエの公演を続けた<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=298}}.</ref>。しかし、不安定な政情の中、[[1918年]]6月に夫、息子とともにロシアを脱出し<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=306}}.</ref>、イギリスに亡命してロンドンに永住。以後、ロシアに戻ることは二度となかった。

[[1919年]]からはバレエ･リュスの活動を再開し、『[[三角帽子 (ファリャ)|三角帽子]]』（1919年）の粉屋の女房役、『[[ナイチンゲールの歌]]』（[[1920（1920年]]）のナイチンゲール役などを演じる。このほか『[[プルチネルラ (バレエ)|プルチネルラ]]』（1920年）などの初演にも関わるが、大戦前に比べると出演の頻度は少なくなった。

[[1928年]]には、精神を病んだかつてのパートナー、ニジンスキーと15年ぶりに再会する。彼のために『ペトルーシュカ』の「踊り子」のコスチュームをしてみせるが、ニジンスキーの記憶を呼び戻すことはできなかった<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=277}}.</ref>。この時にカルサヴィナが、ニジンスキー、ディアギレフらと撮った記念写真が残されている。ディアギレフの死の前年のことであった。

イギリスに渡ったカルサヴィナは、[[1930年]]から[[1931年]]にかけて、[[マリー・ランバート]]が創始したイギリス初のバレエ団、バレエ・クラブ（後のバレエ・ランバート）にゲスト出演した。1931年にはバレリーナとしての活動からは引退するが<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 48）2008|p=48}}.</ref>、バレエ・クラブや[[ロイヤル・バレエ]]などイギリスのバレエ・カンパニーにバレエ･リュスやマリインスキー劇場のレパートリーを伝授し助言を与え、[[フレデリック・アシュトン]]や、[[マーゴ・フォンテイン]]など多くのイギリス人ダンサーに大きな影響を与えた（マーゴ・フォンティンはカルサヴィナの代表作『火の鳥』を伝授されている<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 51）|2008|p=51}}.</ref>）。

また、文筆活動も盛さかんに行い、雑誌『ダンシング・タイム』へのエッセイ寄稿のほか、『バレエ・テクニック』（[[1956（1956年]]）、『クラシック・バレエ - 動きの流れ』（[[1962（1962年]]）などの理論書、前半生をつづった自伝『'''劇場通り'''』（[[1929年]]<ref>ディアギレフ死の翌日に完成し、カルサヴィナはこの日にディアギレフの訃報をきい受けた（『 ({{Harvnb|劇場通り』： 8）|1993|p=8}})。</ref>、[[1947年]]に第28章「ディアギレフ」を追加）を執筆した。カルサヴィナは1910年に初めてロンドンを訪れた頃には全く英語をしゃべることができ話せなかったカルサヴィナだが<ref>（『{{Harvnb|劇場通り』： 232）|1993|p=232}}.</ref>、これらの執筆は全て英語で行わ執筆されている。

[[1946年]]からは[[1955年]]にかけて、バレエの教育や資格認定を行う組織ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシング（RAD、現在のロイヤル・アカデミー・ダンス）副会長を務め<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 52）|2008|p=52}}.</ref>、この他、ほかにバレエ評論家アーノルド・ハスケルと「ダンシング・タイム」編集長リチャードソンによるカマルゴ協会に協力するなど<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 141）|2008|p=141}}.</ref>、イギリスのバレエ発展に大きく貢献した。　

[[1951年]]に夫を失うが再婚はせず、[[1978年]]に[[ベコンズフィールド]]で死去した。

当時のバレリーナの中では群を抜いて知的で教養にあふれていた<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 44）|2008|p=44}}.</ref>。5歳の頃には文字を覚えて新聞の連載小説を読み、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]や[[ミハイル・レールモントフ|レールモントフ]]の詩に親しんだという<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： 34-36|1993|pp=34–36}}.</ref>。帝室舞踊学校時代にはディアギレフらの主催する『[[芸術世界]]』の展覧会に欠かさず足を運び<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=218}}.</ref>、舞踊学校を首席で卒業した際の記念品として[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト]]』を希望した<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=136}}.</ref>、バレエ・リュスでのデビュー後に各地から出演依頼が殺到した際に、ロンドンの劇場を選んだ理由も[[チャールズ・ディケンズ|ディケンズ]]が好きだったからである<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=230}}.</ref>。

このため、ディアギレフや[[アレクサンドル・ベノワ|ブノワ]]など、バレエ・リュスの幹部にも高く評価され、早くから彼らの会議に出席することを許された<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上190）190}}.</ref>。ディアギレフは同性愛者であり、カルサヴィナを「わが子」と呼んで可愛がったが<ref>『{{Harvnb|劇場通り』： |1993|p=226}}.</ref>、その一方でカルサヴィナの美貌と知性にはかすかな恋心を抱いていたとさいわれている<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上167）167}}.</ref>。

また、当時のバレリーナの中にはパヴロワ、ニジンスキーのように貧しい家庭出身の者が少なくなく、生活のためにパトロンに身体を売ることも行われていたが<ref>{{Harvnb|鈴木（2008： 24）|2008|p=24}}.</ref><ref>パヴロワには7人の愛人がいたとされる（ ({{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上57））57}})。</ref>、カルサヴィナはある程度豊かな家庭に育ったこともあり、保守的で貞操が固かった<ref>{{Harvnb|バックル（1983： |1983|p=上57）57}}.</ref>。

|author* {{Cite book | 和書 | author= タマーラ・カルサヴィナ | translator=東野 雅子 | title=劇場通り | year=1993 | publisher=新書館 | isbn=4-403-23025-3}}