「塩鉄論」の版間の差分

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'''塩鉄論'''(えんてつろん)は、[[前漢]]の[[始元_(漢)|始元]]6年([[紀元前81年]])に当時の朝廷で開かれた[[塩]]や[[鉄]]の[[専売制]]などを巡る討論会の記録を後日に[[桓寛]]が60篇の書物に纏めたもの。
 
前漢では[[武帝_(漢)|武帝]]による[[匈奴]]との対外戦争の影響で急速に財政が悪化したため、[[桑弘羊]]らの提案によって塩・鉄・[[酒]]などの専売や[[平準]](市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)・[[均輸]](市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)などを行ってその収益をもって財政を立て直す事となった。これらの政策によって財政は立て直されてその功績で桑弘羊は[[御史大夫]]に昇進した。
 
ところが、こうした方針に[[儒学者]]は「国家が民間と利益を争う事は卑しい事である」と批判し、国家権力の参入によって「民業圧迫」の状態に陥って大打撃を受けた商人達も不満を強めていった。武帝の死後、政権に参加するようになった[[外戚]]の[[大将軍]][[霍光]]はこうした批判を受けて政策の修正を図ろうとした。だが、桑弘羊らがこれに強く反対した。このため、民間の有識者である賢良・文学と称された人々である唐生・万生ら60名を宮廷に招いて[[丞相]]・[[車千秋]]、御史大夫・桑弘羊ら政府高官との討論会が行われた。
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後に10巻本・12巻本などの形式に分かれながらも現代に伝えられている。[[日本]]には[[平安時代]]には既に伝えられており、[[江戸時代]]の[[宝永]]4年([[1707年]])には[[徳山藩]]の依頼を受けた[[伊藤東涯]]によって校訂加点本が刊行されている。
 
[[Category:中国の文学作品|えんてつろん]]
 
[[zh:盐铁论]]