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芹沢との交友、お手伝いさんを養女としたことなど
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| 除隊後 = [[九州帝国大学]]総長
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'''百武 源吾'''(ひゃくたけ げんご、[[明治]]15年([[1882年]])[[1月28日]] - [[昭和]]51年([[1976年]])[[1月15日]])は[[大日本帝国海軍]]の軍人。最終階級は[[海軍大将]]。第7代[[九州帝国大学]]総長。[[佐賀県]]出身。兄・[[百武三郎|三郎]]と源吾は[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を首席卒業し、ともに[[海軍大将]]となった日本海軍史上唯一の兄弟である
 
== 人物・来歴 ==
[[佐賀藩]]の[[足軽]]・百武庭蔵の五男として生まれた。海軍大将の兄・[[百武三郎|三郎]]は三男、陸軍中将の弟・[[百武晴吉|晴吉]]は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。[[佐賀県立佐賀西高等学校|佐賀中学]]、[[海城中学校・高等学校|海軍予備校]]を経て、明治35年([[1902年]])12月、[[海軍兵学校 (日本) |海軍兵学校]]30期を首席で卒業。同期生から唯一人、大将まで昇進した。作家の[[芹沢光治良]]とは特別な交友関係にあり義兄弟の約束をしている<ref>『歴代海軍大将全覧』「第七章」</ref>
===尉官時代===
遠洋航海を終えた際、席次は[[今村信次郎]]と入れ替わり次席となった<ref>『異色の提督 百武源吾』p19</ref>が、明治36年([[1903年]])9月より[[連合艦隊]]旗艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」乗組に任じられ、主砲着弾観測員を勤めた。翌年3月に「三笠」砲術長に[[加藤寛治]]少佐が着任し、[[8月10日]]の[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で[[ヴィリゲリム・ヴィトゲフト|ヴィルヘルム・ウィトゲフト]]提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。加藤の采配に感動した百武だったが、後に私的な諍いから加藤不信に転じて互いの命運を左右することになる。
 
黄海海戦後の10月に「[[韓崎 (潜水母艦)|韓崎丸]]」乗組となる。これは戦時のため遠洋航海が行われなかった32期の少尉候補生<ref>『異色の提督 百武源吾』pp30-31。なお『回想の日本海軍』所収の[[福地誠夫]]との対談でによれば、百武は31期の少尉たちの訓練にあたったと述べている(『回想の日本海軍』「百武源吾大将の日露戦争懐旧談」)。</ref>の実務訓練が目的で、中小尉から成績優秀な士官が選抜され指導官となったためである<ref>他に29期首席[[溝部洋六]]、4席[[村瀬貞次郎]]、今村信次郎が選ばれている。</ref>。12月に「[[富士 (戦艦)|富士]]」航海士となり、[[日本海海戦]]に参戦した。戦後は「[[千代田 (巡洋艦)|千代田]]」「[[香取 (戦艦)|香取]]」「富士」の分隊長、「[[磐城 (砲艦)|磐城]]」の航海長を務めて着実に技量を上げていった。明治40年([[1907年]])に砲術学校特修科、明治41年([[1908年]])には[[海軍大学校]]乙種(首席)、同専修学生、明治44年([[1911年]])には同甲種学生と、大尉時代は勤務の傍ら学校教育を頻繁に受けている。
 
===佐官時代===
大正2年([[1913年]])に初めて赤煉瓦勤務となり、[[軍令部]]参謀・教育本部第2部員を兼任した。大正4年([[1915年]])から2年間、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に駐在する。ここでアメリカの国情を詳細にわたって研究し、[[日露戦争]]後にアメリカを仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。しかし、帰国して海軍大学校教官に任じられ、2年間にわたって学生に対米協調の重要性を説き続けたが、血気盛んな学生は「百武教官は恐米論者」と反発を強め、受け入れられなかった。
 
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その後「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長・[[海軍省#教育局|教育局]]第1課長・軍令部参謀を勤めている。
===将官時代===
大正14年([[1925年]])に国連軍縮会議海軍代表に任じられ、交渉を通じてさらに対外協調路線の重要性を認識し、海軍大学校教頭に就任後は以前の教官時代以上に協調路線を熱く学生に説くようになった。
 
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昭和11年(1936年)12月より翌年4月まで[[横須賀鎮守府]]司令長官を勤め、この間に大将に昇進して百武の現場生活は終わった。以後は昭和17年([[1942年]])7月まで[[軍事参議官]]として現役に留まった。参議官としても陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した。永野修身・軍令部総長が体調を崩し、引退をほのめかした際に、百武が序列から見て総長に任じられる可能性が高いことが問題となった。後年百武自身が「軍令部総長や海軍大臣に就任することがあれば、開戦に反対であり思いきったことをやるつもりであった」と述べている<ref>『異色の提督 百武源吾』pp124-126</ref>ように明白な避戦派である百武が総長となることを阻止する水面下の工作の結果、永野続投が強行され、さらには戦時下にも関わらず百武を[[予備役]]に編入し、海軍から追放することになった。大将の定年まで5年を残しての予備役編入であった。
 
戦後、[[新見政一]]元中将は、先の見える百武さんのような人が冷遇されたのは気の毒であったと述べている<ref>『提督 新見政一』「92歳の所感」</ref>。
 
==九州帝大総長==
海軍を追われた百武は、[[九州帝国大学]]から総長候補に指名される。これは工学部が新総長を学外の第一人者から招聘する意向を固め、海軍経験者の中から百武を選んだものであった。[[学習院|学習院長]]経験者である[[野村吉三郎]]大将から説得され、百武は総長選挙に立候補し、昭和20年([[1945年]])3月から11月まで総長を勤めた。教官を敬わない学生の風紀を改めるべく海軍式の教育を普及させた。また、陸軍省と[[文部省]]が医学生の徴兵を猶予する協定を結んでいたにもかかわらず、医学生も[[根こそぎ動員]]していた[[西部軍 (日本軍)|西部軍]]に対して直談判し、徴兵された医学生を大学に復帰させた。
===戦後===
昭和20年([[1945年]])8月15日、百武は辞表を提出し、[[静岡県]][[引佐郡]]に移住し帰農する。64歳になっていた百武は自らの手で畑の開墾を始め、夜明け前から日没後まで農作業に追われた。訪れた人が涙を流すほどのあばら家生活<ref>『異色の提督 百武源吾』p171</ref>で、最初の2年は何も収穫できないような状態であったが、自給自足できるまでに成功させた。
 
豊かな生活ではなかったが、恩給の申請に際しては有利であった九大総長としてではなく、海軍大将としての恩給を選んでいる<ref>『異色の提督 百武源吾』p312。[[井上成美]]に同様の逸話がある。</ref>。自宅に兵学校の同期生を招いてはクラス会を開き、また海軍の後輩達が訪れるのを喜んだ。しかし[[荒木貞夫]]らの招きには一顧もしなかった<ref>『異色の提督 百武源吾』p164</ref>。
昭和51年(1976年)に94歳で死去。兵学校30期生187名<ref>義済会員名簿による。病のため卒業試験に出席できなかった津留雄三を含む。</ref>の最後を飾る大往生であった。百武には一男九女があり、女婿には[[五・一五事件]]の被告特別弁護人を務めた[[浅水鉄男]](殉職)などがいた。しかし男子は夭逝し、お手伝いであった女性を養女とし全財産を譲渡した<ref>『異色の提督 百武源吾』p190</ref>
 
== 年譜 ==
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== 参考文献 ==
* 石井稔編著 『異色の提督 百武源吾』 同刊行会、1979年。
* [[水交会]]編 『回想の日本海軍』 原書房、1985年 ISBN 4-562-01672-8
* 提督[[新見政一]]刊行会 『提督 新見政一』 原書房、1995年 ISBN 4-562-02696-0
* 外山操編 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』 芙蓉書房出版、1981年 ISBN 4-8295-0003-4
* [[秦郁彦]]編 『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
* [[半藤一利]]、[[戸高一成]]、秦郁彦他『歴代海軍大将全覧』中公新書クラレ ISBN 4-12-150177-2
* 福川秀樹 『日本海軍将官辞典』 芙蓉書房出版、2000年。
* 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』 原書房