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==経歴==
『[[後漢書]]』[[劉賜]]伝註の『続漢書』の引用によれば、先ず酔っ払った釜侯亭長が、劉玄の父劉子張を罵り、劉子張は怒ってこの亭長を刺殺した。次に十余年後、この亭長の子が復仇として劉玄の弟劉騫を殺害した。劉玄はこの仇を報いんと賓客と結託したが、賓客が法を犯して、劉玄は平林に逃れた。役人は劉子張を獄に繋ぎ、劉玄は死せる真似をし、喪を行わせて舂陵に帰り、役人に劉子張を出させ、世間から隠れた。<ref>劉玄の従兄弟・劉顕も劉騫の仇を討とうとした。劉顕は役人に捕えられて処刑された。これを怨んだ劉顕の弟[[劉賜]]は、劉顕の子[[劉信 (汝陰侯)|]]と共に、家財を擲って刺客を雇い入れて劉顕の復讐を果たしている。</ref>
 
[[地皇]]3年([[22年]])、緑林の乱が発生すると[[陳牧]]が率いる平林軍に参加する。緑林の兵は疫病のため新市軍と下江軍に分かれるが、新市軍と平林軍、更に[[劉秀]]の兄[[劉エン (伯升)|劉縯]]の舂陵軍は連合し、また下江軍も加わった農民豪族連合軍となった。[[23年]]正月、連合軍は[[新]]の太守・都尉である[[甄阜]]、[[梁丘賜]]を打ち破り、この時点で劉玄は更始将軍を自称した。更に2月、前漢の宗室であることから皇帝に擁立され、[[更始 (漢)|更始]]の元号を建てた。
 
6月、連合軍・漢軍が[[昆陽の戦い]]で劉秀による大勝利を収めた後、更始帝は劉縯によって降された宛城に入り、宗室諸将に対する冊封を行った。この月、威名を恐れて更始帝は劉縯を誅殺した。また更始帝は[[王匡 (更始)|王匡]]を派遣して[[洛陽]]を、[[申屠建]]、[[李松]]を派遣して[[武関]]を攻め[[長安]]を目指し、一方[[汝南]]に天子を称する[[劉望]]に劉賜を派遣した。新朝の滅亡を実感した地方勢力は王莽の派遣した牧守を殺害し、更始の元号を使用するようになった。9月<ref>『後漢書』による。『漢書』では10月。</ref>、更始帝陣営はついに長安・洛陽を陥落させ、王莽の首級を得ている。10月に[[劉信 (汝陰侯)|劉信]]が劉望を破り、更始帝は洛陽遷都を行い、更始2年([[24年]])2月に[[長安]]遷都を行った。
 
長安遷都後の劉玄は奢侈な宮廷生活に染まり、即位の朝政を岳父の[[趙萌]]に一任してその専権を放任した。[[赤眉軍]]が長安に迫った際に、[[張卬]]、[[廖湛]]、[[胡殷]]、申屠建と[[隗囂]]は謀議し、劉玄を脅して[[南陽]]に還ることを謀る。これが劉玄の耳に入り、5人は召される。隗囂は事が漏れたと悟って館に篭り、召された4人のうち3人は異常に気付き脱出し、それでも残った申屠建は斬られた。隗囂は[[天水]]に逃げ、残り3人(三王:[[淮陽県|淮陽]]王張卬、穣王廖湛、隋王胡殷)は長安で謀反を起こして、逆に劉玄を長安から逃走させる。