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{{otheruses|[[中国]]古代の文字|その他}}
{{漢字|[[画像:China Wei 3style text.jpg|170px|魏の三体石経(拓本)上から、古文・篆書・隷書]]}}
'''古文'''(こぶん)は、[[漢字]]の[[書体]]の一種。広い意味での[[篆書]]系統の[[文字]]である。
 
'''古文'''(こぶん)とは、[[漢字]]の[[書体]]の一種。広い意味での[[篆書]]系統の[[文字]]である。
 
広義には[[秦]]の[[小篆]]以前に使われていた文字を指すが、狭義には[[後漢]]の[[許慎]]による字書『[[説文解字]]』や[[魏 (三国)|魏]]の「三体石経」に「古文」として使われている文字、さらに出土文物である六国の[[青銅器]]・[[陶器]]・[[貨幣]]・[[璽印]]や[[長沙]]仰天湖楚墓竹簡・信陽楚墓竹簡・楚帛書といった文書に使われている文字を指す。
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===展開===
古文経伝を奉ずる学問を'''古文学'''(こぶんがく)または'''古文経学'''(こぶんけいがく)という。前漢末の[[劉キン (学者)|劉歆]]が提唱したもので、当初は[[今文学]]が普通であったため主流ではなかったが、[[王莽]]の[[新]]朝で学官に立てられるなど徐々に頭角を現した。
 
[[後漢]]では王莽政権を否定するため、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、古文学は在野で行われ、経文の一字一句を解釈する[[訓詁学]]を発展させた。[[五経博士]]を主体とした今文経学が一経専門で家法の伝授を墨守し、他経にまで通ずることがなかったのに対し、古文学は博学でさまざまな理論を取り入れつつ、[[六経]]全般を貫通する解釈学構築を目指した。そのなかで今文と古文を字体の差異に還元し、字形にもとづく解釈学を発展させた[[許慎]]の『[[説文解字]]』も生まれている。また[[鄭玄]]は[[三礼]]を中心に[[六経]]に通ずる理論体系を打ち出し、後漢の経学を集大成したのである。この結果、完全に今文経学の伝承は途絶え、[[儒学]]は古文学の独擅場となった。
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しかしこのように一本化されたことによって、逆に[[唐]]代になると今文古文の差異が重視されなくなり、その存在感に影が差し始める。[[北宋|宋代]]になると一字一句にこだわる訓詁学に対して異議が唱えられ、字義よりも思想内容を重視した[[朱子学]]などの新しい経学が生まれた。
 
しかし、[[清]]代になると朱子学の解釈学が主観的すぎるとの批判がおこり、[[乾嘉の学]]([[考証学]])では、古文学をもとに漢学の復興がはかられた。その後、[[常州学派]]が[[今文学]]を重視し、古文経伝は[[劉キン (学者)|劉歆]]の偽作と主張された。
 
===古文経伝===