「小原弘稔」の版間の差分

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*[[1974年]]、グランド・レビュー『イマージュ』から、演出家名を'''小原弘亘'''から'''小原弘稔'''に変更。
*[[1984年]]、『ザ・レビューⅡ -TAKARAZUKA FOREVER-』の主題歌は、宝塚歌劇団を代表する楽曲の一つとなり、イベント等で歌い継がれるようになる。
*[[1987年]]、『[[ME AND MY GIRL]]』初演の脚色・演出を手掛ける。公演が好評を博して、異例の1年間ロングラン公演となる。また、新人公演で当時研究科1年(入団1年目)の[[天海祐希]]を主演のビルに抜擢したことでも話題を呼んだ
*[[1988年]]、バウホール公演『[[リラの壁の囚人たち]]』の脚本・演出を手掛ける。この作品は、1988年の『[[ツーロンの薔薇]]』、1991年の『[[グランサッソの百合]]』と合わせ、後に「[[第二次世界大戦]][[レジスタンス運動|レジスタンス]]シリーズ3部作」と呼ばれている。
*同年、ニューヨーク・ラジオシティ・ミュージックホールでの海外公演『タカラヅカ・フォーエバー!』の作・演出を担当する。
*[[1990年]]、星組大劇場公演『メイフラワー』(芝居)と『宝塚レビュー 90』(ショー)の作・演出を一人で手掛ける。通常、芝居とショーで2部仕立ての構成の場合は、芝居とショーはそれぞれ別の演出家が担当することが通例で、一人で両方を担当するのは極めて稀なケースと言えるであった
*[[1993年]]、新・[[宝塚大劇場]]公演[[こけら落とし]]公演のショー『PARFUM DE PARIS』の作・演出を手掛ける。
*[[1994年]]、自身が手掛けた『[[コート・ダジュール]]』が[[東京宝塚劇場]]で上演中に、肺がんのため死去。享年60
 
==主な作品==