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==歴史的背景==
紀元前後、[[前漢]]は皇室の外戚である[[王莽]]が全権力を完全に掌握し、ほとんど崩壊状態となっていた。そして[[初始]]元
新の政治は[[周]]の礼治を理想とした極端な復古主義を基本とし、周をはじめとして過去の王朝のさまざまな政策を模倣することでそれを達成しようとした。その中で[[秦]]の模倣も行われ、建国翌年の[[始建国]]元
==概要==
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==研究と評価==
嘉量は標準器としては極めて優秀であったため、[[新]]の滅亡後も保管され、[[西晋]]代の[[泰始 (晋)|泰始]]
その後千数百年にわたって行方不明となっていたが、[[清]]の[[乾隆]]年間(1736-1795年)に朝廷の倉庫内で再発見されて再び陽の目を見ることになり、乾隆
清朝滅亡後、嘉量は[[紫禁城]]内のかまどの上に放置されてほこりにまみれるままになっていたが、民国
これによりこれまで朝廷の秘宝であった嘉量が民間の研究に供される機会を得ることとなり、研究者たちはその精密さに驚くとともに精力的に研究を行い、多くの論文が発表されるに至った。
その後戦争による避難を経て一時首都・[[南京市|南京]]へ戻ったものの、中華民国政府が中国大陸を追われるのとともに民国
==参考文献==
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