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==歴史的背景==
紀元前後、[[前漢]]は皇室の外戚である[[王莽]]が全権力を完全に掌握し、ほとんど崩壊状態となっていた。そして[[初始]]元(8)11(8年)11月、ついに王莽は第14代皇帝の[[孺子嬰]]に[[禅譲]]を迫り、帝位を[[簒奪]]して皇帝に即位、国号を「[[新]]」と改めたのである。
 
新の政治は[[周]]の礼治を理想とした極端な復古主義を基本とし、周をはじめとして過去の王朝のさまざまな政策を模倣することでそれを達成しようとした。その中で[[秦]]の模倣も行われ、建国翌年の[[始建国]]元(9)(9年)、かつて[[始皇帝]]が行ったのと同じように[[度量衡]]を改定し、優秀な経学者であった[[劉キン (学者)|劉歆]]に命じて標準器を設計させ、全国に配布した。これが新莽嘉量こと「嘉量」である。
 
==概要==
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==研究と評価==
嘉量は標準器としては極めて優秀であったため、[[新]]の滅亡後も保管され、[[西晋]]代の[[泰始 (晋)|泰始]]10(274)10年(274年)年に朝廷内で嘉量を測定した記録が残っている。しかしその後朝廷の手を離れ、[[東晋]]代の[[太元 (東晋)|太元]]4(379)4年(379にそれとおぼしき枡が市に出ていたという記録を最後に一時その姿をくらました。
 
その後千数百年にわたって行方不明となっていたが、[[清]]の[[乾隆]]年間(1736-1795年)に朝廷の倉庫内で再発見されて再び陽の目を見ることになり、乾隆9(1744)9(1744年)には嘉量を参考にした2つの枡が鋳造された。
 
清朝滅亡後、嘉量は[[紫禁城]]内のかまどの上に放置されてほこりにまみれるままになっていたが、民国13(1924)13(1924年)に[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]ら旧皇族が追放されると[[中華民国]]政府に接収された。
 
これによりこれまで朝廷の秘宝であった嘉量が民間の研究に供される機会を得ることとなり、研究者たちはその精密さに驚くとともに精力的に研究を行い、多くの論文が発表されるに至った。
 
その後戦争による避難を経て一時首都・[[南京市|南京]]へ戻ったものの、中華民国政府が中国大陸を追われるのとともに民国37(1948)37(1948年)に[[台湾]]へ移されることになり、現在は台湾の故宮博物院に収められ展示されている。
 
==参考文献==