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{{基礎情報 武士
'''源 重成'''(みなもと の しげなり、生年未詳 - [[平治]]元年([[1159年]])12月)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。八島冠者・佐渡源太[[源重実]]の長男。母は勾当大夫宗成女。弟に二郎先生源重忠、山田先生[[源重貞]]、浦野四郎[[源重遠]]らがあり、子に光成、重茂、忠輔、[[八島時清|時清]]、重快らがある。[[官位]]は[[式部丞]]を経て[[昇殿]]、[[従五位下]]、[[近江国|近江]]守。号は佐渡式部大夫。'''八島重成'''とも。
| 氏名 = 源重成
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = 未詳
| 死没 = [[平治]]元年12月([[1159年]])
| 改名 =
| 別名 = 佐渡式部大夫
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位下]]、[[大炊助]]、[[式部丞]]、[[昇殿]]、[[近江国|近江]]守
| 主君 = [[源義朝]]
| 氏族 = [[清和源氏]][[源満政|満政流]]([[美濃源氏]])
| 父母 = 父:[[源重実]]<ref>『[[続群書類従]]』所収の「和田系図」では重遠の子とする。</ref>、母:勾当大夫宗成女
| 兄弟 = [[源重遠|重遠]]、'''重成'''、重忠、[[源重貞|重貞]](重定)、重頼、時成<br/>重近、実宗、仲重、源実
| 妻 = 不詳
| 子 = 光成、重茂、忠輔、[[八島時清|時清]]、重快
| 特記事項 =
}}
'''源 重成'''(みなもと の しげなり、生年未詳 - [[平治]]元年([[1159年]])12月)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。八島冠者・佐渡源太[[源重実]]の長男。母は勾当大夫宗成女。弟に二郎先生源重忠、山田先生[[源重貞]]、浦野四郎[[源重遠]]らがあり、子に光成、重茂、忠輔、[[八島時清|時清]]、重快らがある。[[官位]]は[[式部丞]]を経て[[昇殿]]、[[従五位下]]、[[近江国|近江]]守。号は佐渡式部大夫。'''八島重成'''とも。
 
== 生涯 ==
[[天承]]元年([[1131年]])には[[大炊助]]、[[永治]]2年([[1142年]])には[[兵部少丞]]となっているが、その後は[[散位]]となる。[[久安]]3年([[1147年]])の[[祇園闘乱事件]]に際しては[[京武者]]の一人として[[延暦寺]][[衆徒]]の入京阻止に動員されている(『[[本朝世紀]]』)。[[保元]]元年([[1156年]])7月、[[保元の乱]]で[[後白河天皇]]方に加わり、第一陣の[[平清盛]]、[[源義朝]]、[[源義康]]の出撃後、[[源頼政]]、[[平信兼]]と共に第二陣の将の一人として出撃し後白河方の勝利に貢献した。その後[[従五位下]][[式部丞]]に任ぜられ式部大夫を称す(『[[兵範記]]』)。乱の後、捕らえられた敵方の[[崇徳天皇|崇徳上皇]]を[[仁和寺]]から鳥羽付近まで護送した。
[[天承]]元年([[1131年]])には[[大炊助]]、[[永治]]2年([[1142年]])には[[兵部少丞]]となっているが、その後は[[散位]]となる(『[[長秋記]]』『[[本朝世紀]]』)。翌久安3年([[1147年]])の[[祇園闘乱事件]]に際しては[[京武者]]の一人として[[延暦寺]][[衆徒]]の入京阻止に動員される。この時保呂(母衣、ほろ)と呼ばれる武具<ref>鎧の背後に装着し矢を防ぐ為のもの。</ref>を叔父[[源重時|重時]]が[[永久の強訴]]鎮圧の際に用いた先例に倣い自らの郎党に着用させ「一族之風」として人々の注目を浴びた(『本朝世紀』)。
 
[[天承]]元年([[1131年]])には[[大炊助]]、[[永治]]2年([[1142年]])には[[兵部少丞]]となっているが、その後は[[散位]]となる。[[久安]]3年([[1147年]])の[[祇園闘乱事件]]に際しては[[京武者]]の一人として[[延暦寺]][[衆徒]]の入京阻止に動員されている(『[[本朝世紀]]』)。[[保元]]元年([[1156年]])7月、[[保元の乱]]で[[後白河天皇]]方に加わり、第一陣の[[平清盛]]、[[源義朝]]、[[源義康]]の出撃後、[[源頼政]]、[[平信兼]]と共に第二陣の将の一人として出撃し後白河方の勝利に貢献した。その後[[従五位下]][[式部丞]]に任ぜられ式部大夫を称す(『[[兵範記]]』)。乱の後、捕らえられた敵方の[[崇徳天皇|崇徳上皇]]を[[仁和寺]]から鳥羽付近まで護送した。
平治元年([[1159年]])12月、[[平治の乱]]においても源義朝らと共に信頼方に参加。この時は信頼軍が一時拘束した後白河上皇を護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代の上皇を護送した」として世上大きな話題になった。
 
平治元年([[1159年]])12月、[[平治の乱]]においても源義朝らと共に信頼方に参加。この時は信頼軍が一時拘束した後白河上皇を[[源光基]]・[[源季実|季実]]らと共に護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代の上皇を護送した」として世上大きな話題になった。

しかし二条天皇六波羅御幸すると、信頼らは賊軍に転落し、攻め寄せてきた[[平清盛]]軍と交戦する。その戦いに信頼軍は破れ、重成は義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。『[[平治物語]]』によると途中、[[美濃国]]にて落武者狩りの一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自決した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。
 
==系統・系譜==
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*[[清和天皇]]-[[貞純親王]]-[[源経基]]-[[源満政]]-[[源忠重]]-[[源定宗]]-[[源重宗]]-[[源重実]]-'''源重成'''
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連 ==