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『[[看聞日記]]』によれば、[[足利義持]]が当初の諱である躬仁の「躬」の字には“身に弓があるのは難がある”として[[鄂隠慧カツ|鄂隠慧奯]]に相談し、「躬」と同音の「實」とすることにした。
 
[[後小松天皇|後小松上皇]]が[[院政]]を行っていたが、生来病気がちであり、[[嗣子]]に恵まれなかったことから、後小松上皇は、[[伏見宮家]]より[[後花園天皇]]を[[猶子]]に迎え後継者とした。ために見るべき実績がなく、さらには、室町幕府の意向で[[代始]][[改元]]が認められず(16年目に実現するが、その3か月後に[[崩御]]する)、弟[[小川宮]]との死別、父帝との不和など家庭内の問題が原因で精神を病むなど、不運な帝であった。
 
[[1428年]](正長元[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]、28歳で[[崩御]]
 
==諡号・追号・異名==