「本願寺日高別院」の版間の差分

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その後、唯可は[[石山本願寺]]に移った証如に拝謁し、'''祐存'''という[[法名 (浄土真宗)|法名]]と証如の御影を賜ったという。また、[[坊舎]]の号を許可され、'''吉原坊舎'''と称した。
 
[[天正]]13年([[1585年]])の[[紀州征伐]]により、吉原坊舎と[[湯川氏]]の居城・[[亀山城 (紀伊国)||亀山城]]は焼失した。しかし、祐存は[[僧]]とともに薗浦の椿原に仮堂を建て、'''薗坊舎'''と称した。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])、[[紀伊国|紀伊国主]][[浅野幸長]]の[[重臣]]・[[佐竹伊賀守]]の援助で薗坊舎を現在地に移し、[[鷺森別院|鷺森御坊]]の別院として当院を再建した。御坊舎に因んで地名も'''御坊'''と呼ばれるようになり、現在の[[御坊市]]の地名の起源となった。以降、門徒を中心に人々が周辺に往来し[[町場]]が形成され、[[日高郡 (和歌山県)|日高地方]]の商業の中心になった。町は日高別院を中心に'''西町'''・'''中町'''・'''東町'''に分かれているが、特に東町には現在でも[[土蔵|土蔵屋敷]]が多く残り、[[近世]]の町並みを顕著に残している。