「マルチナ・ナブラチロワ」の版間の差分

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[[2010年]]4月7日、雑誌「[[ピープル (雑誌)|People]]」で[[乳がん]]であることを告白した<ref>{{Cite web|date=2010-04-07|url=http://www.people.com/people/article/0,,20358261,00.html|title=Martina Navratilova Has Breast Cancer|publisher=People誌|accessdate=2010-04-08}}</ref>。
== キャリア ==
出生名は「マルチナ・シューベルトワ」。3歳の時に実の両親が離婚、その後母親がミロスラフ・ナブラチルと再婚したことから、継父の姓の女性形を名乗って「ナブラチロワ」になった。[[1975年]]、共産主義国の[[チェコスロバキア]]を離れて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命。[[1978年]]の[[1978年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権で4大大会初優勝を果たした(この時点ではまだチェコスロバキア国籍であった)。[[1981年]]7月に米国市民権を取得。以降アメリカ国籍でプレーし、同年[[1981年全豪オープン|全豪オープン]]<ref>全豪オープンは[[1985年全豪オープン|1985年]]まで12月の年末に開催されていた。現在のような1月開催になったのは[[1987年全豪オープン|1987年]]の大会からであり、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更がなされたため「1986年全豪オープン」は“開催せず”の空欄となっている。</ref> で米市民権取得後初優勝を果たした。
 
初期のナブラチロワには精神面の弱さや亡命問題のストレスなどがあり、選手としての開花は25歳を過ぎてからであったが、[[1981年]]の[[1981年全豪オープン|全豪オープン]]優勝を契機に無敵の強さを発揮し始める。[[1982年]]に[[1982年全仏オープン|全仏オープン]]と[[1982年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権を制覇して4大大会3連勝。この年からウィンブルドン選手権における、前人未到の「6連覇」が始まる。[[1983年]]のウィンブルドン選手権から[[1984年]]の[[1984年全米オープン (テニス)|全米オープン]]まで、2年間にまたがる4大大会「6連勝」を達成。しかし年末開催の[[1984年全豪オープン|全豪オープン]]準決勝で[[ヘレナ・スコバ]]に敗れ、“年間”[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]を逃してしまう(4年後の[[1988年]]に[[シュテフィ・グラフ]]が年間[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]を達成したため、ナブラチロワの2年間にまたがる記録は「グランドスラム」認定から取り消された)。[[1987年ウィンブルドン選手権|1987年]]にウィンブルドン選手権で6連覇を達成。この時から彼女は[[1938年]]に同選手権「8勝」を挙げた往年の名選手、[[ヘレン・ウィルス・ムーディ]]の記録を更新する目標を掲げた。しかし[[1988年ウィンブルドン選手権|1988年]]の同選手権決勝で19歳の新女王[[シュテフィ・グラフ]]に敗れ、大会7連覇を逃した。グラフには[[1989年ウィンブルドン選手権|1989年]]の決勝でも敗れている。[[1990年ウィンブルドン選手権|1990年]]の決勝戦で[[黒人]]選手の[[ジーナ・ガリソン]]に完勝し、宿願の[[ウィンブルドン選手権]]「9勝」を果たす。52年間大会歴代1位であったムーディの記録はこうして破られた。
 
[[1994年]]を「シングルス最後の年」と位置づけたナブラチロワは、あまり得意ではないクレーコートの[[1994年全仏オープン|全仏オープン]]に6年ぶりの参加を決めたが、1回戦敗退に終わる。最後の[[1994年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]選手権では4年ぶりの決勝に進出したが、[[スペイン]]の[[コンチタ・マルチネス|コンチータ・マルチティネス]]に敗れて大会10勝目を逃した。同年11月の女子ツアー年間最終戦「[[WTAツアー選手権|バージニア・スリムズ選手権]]」において、女子テニス選手として初めての「引退式典」がナブラチロワの偉業を讃えて開催された。38歳に至るまで第一線で活躍したナブラチロワは、世界ランキング4位で現役を退いた。
 
ナブラチロワはダブルス選手としても、様々なパートナーたちと組んで数々の歴史的な記録を残してきた。キャリアの初期には[[ビリー・ジーン・キング]]夫人と組むことが多く、後に[[パム・シュライバー]]と組んで4大大会の女子ダブルスに「20勝」を記録した。2人のペアは[[1983年ウィンブルドン選手権|1983年ウィンブルドン]]から[[1985年全仏オープン]]まで4大大会に「8大会連続優勝」を飾り、[[1983年]] - [[1985年]]にかけて女子ダブルス「109連勝」の記録を樹立する。前人未到の大記録は、[[1985年]]の[[1985年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルス決勝で止まった。2人の連勝記録を止めたのは、[[キャシー・ジョーダン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])&[[エリザベス・スマイリー]]([[オーストラリア]])組であった。
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|-style="background: #CF9;"
| [[1979年]] || [[1979年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|USA}} [[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]] || 6-4, 6-4
|-style="background: #CFF;FD5"
| [[1981年]] || [[1981年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|USA}} [[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]] || 6-7, 6-4, 7-5
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|-style="background: #CCF;"
| [[1983年]] || [[1983年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|USA}} [[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]] || 6-1, 6-3
|-style="background: #CFF;FD5"
| [[1983年]] || [[1983年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|USA}} [[キャシー・ジョーダン]] || 6-2, 7-6
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| [[1985年]] || [[1985年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|USA}} [[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]] || 4-6, 6-3, 6-2
|-style="background: #CFF;FD5"
| [[1985年]] || [[1985年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|USA}} [[クリス・エバート|クリス・エバート・ロイド]] || 6-2, 4-6, 6-2
|-style="background: #CF9;"