「新門辰五郎」の版間の差分

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[[武蔵国]][[江戸]][[下谷]]山崎町(現在の[[東京都]][[台東区]][[下谷]])に生まれる。幼少の頃に実家の火事で父が焼死、或いは自宅から出火し近辺を類焼した責任を取り町火消になったと伝えられる。浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や[[喧嘩]]の仲裁などで活躍する。仁右衛門の娘を貰い養子縁組し、[[文政]]7年([[1824年]])に「を組」を継承する。侠客の元締め的存在で、[[弘化]]2年([[1845年]])に他の組と乱闘になり死傷者が出た際には責を取って入牢している。
 
幕府の高級官僚だった[[勝海舟]]とも交流があったと言われ、その著書『[[氷川清話]]』の中でも触れられている。その一方で、博徒・[[小金井小次郎]]と[[義兄弟]]となり、これを子分のように可愛がった。
 
[[上野]][[大慈院]][[別当]][[覚王院義観]]の仲介で一橋慶喜(徳川慶喜)と知り合ったと伝えられ、娘の[[お芳|芳]]は慶喜の妾となっている。[[元治]]元年([[1864年]])に[[禁裏御守衛総督]]に任じられた慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛して[[二条城]]の警備などを行う。[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]で江戸幕府が消滅し、[[鳥羽伏見の戦い]]の後に慶喜が[[大坂]]から江戸へ逃れた際には、大坂城に残されたままになっていた家康以来の金扇の大[[馬印]]を取り戻し<ref>船戸安之『勝海舟』282頁</ref>東海道を下って無事送り届け、慶喜の謹慎している上野[[寛永寺]]の寺の警護に当たっている。[[上野戦争]]での伽藍の防火、慶喜が水戸(茨城県)、静岡と移り謹慎するとそれぞれ警護を務めている。慶喜とともに静岡に住み駿河国清水の侠客である[[清水次郎長]]とも知縁であったと伝えられる。遠江国磐田郡での製塩事業にも協力した。[[明治]]になると東京(江戸)へ移る。明治8年(1875年)に没、享年75(または83)。