「エチオピアの歴史」の版間の差分

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===エチオピアの呼称===
エチオピアという呼び名を最初に使ったのは紀元前五世紀頃の[[ギリシア人]]たちであり、[[歴史家]]の[[ヘロドトス]]は『ヒストリア』においてエチオピア地方の人イティオプス(AITHIOPS)(AETHIOPS)と記録した。これは「日に焼けた人々」を意味するギリシア語であり、[[旧約聖書]]においても同様の記述が残されている<ref>岡倉(1999:17)</ref>。これが現在のエチオピアの語源であるが、その国名が使用されるようになったのは1900年代になってからのことだった。この地域は有力な部族と周辺部族が混在する地域でしかなく、現在のエチオピアという国家としての概念は存在していなかった。[[ゴンダール|ゴンダル]]を中心としたアムハラ系がかろうじて最大勢力であったが、支配地域は現在のエチオピア北部の一部でしかない。そのため、エチオピアという領土を含んだ国家の概念が生み出されるまでには、[[1889年]]に[[エチオピア帝国]]の皇帝に即位した[[メネリク2世]]による最大版図の確立を待たねばならなかった<ref>岡倉(1999:24)</ref>。
 
一方、彼ら自身は国名を名乗らなかったが、外部からはこの地域に名称をつけた民族が存在する。アラビア半島に住む[[アラビア人]]たちは、エチオピア地方のことを[[ハベシュ]]と呼んでいた。これは、[[スーダン]]から西方の人々を「黒い人々」「純血のハム系」を意味するスーダンと呼んだことと対比した言葉で、ハベシュはセム語化したハム族、つまり「混血」を意味する言葉だった。それは当初、アラビア人のみによる呼称だったが、[[マルコ・ポーロ]]が『[[東方見聞録]]』においてこの言葉をアバッシュ(Abash)として取り上げると一般化し、ヨーロッパで伝播する過程でさらにアビシニアという言葉に転じた<ref>岡倉(1999:22)</ref>。その言葉はヨーロッパ人から見てエチオピアを示す言葉として広く浸透し、19世紀までエチオピアに向けた諸外国の書簡の宛名はアビシニアとなっていた<ref group="注釈">[[1860年]]の[[ヴィクトリア女王]]の手紙など</ref>。