「法住寺 (京都市)」の版間の差分

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=== 鎌倉期から江戸末期まで ===
 
その後法住寺は後白河天皇の御陵をまもる寺として長く存続した。[[鎌倉時代]]に建春門院をまつる法華堂、後白河上皇をまつる法華堂が、蓮華王院の東にならびたっていたという記録がある。時の権力の変遷にともなって法住寺はいくつかの近隣寺院と関係をもった。とくに[[妙法院]]との関係は密接で、後白河上皇が比叡山の妙法院を京都に移した際、妙法院住職に法住寺、新日吉神社を付託し門跡寺院としたという機縁がある。[[豊臣政権]]化では、すぐ北にあった[[方広寺]](大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、[[徳川政権]]によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された。妙法院の日記である『妙法院日次記』には、江戸時代を通じて、法住寺の名前があがっている。また現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に『法住寺』と書かれた江戸時代の手水鉢があり、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる。なお妙法院に住持した歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺境内にあった。なお、[[幕末]]に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れたときに当時の住持が怒りのあまり御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったために以後疑う者がいなくなったと言われている。また[[元禄]]期には[[大石良雄|大石内蔵助]]がこの法住寺に参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されている。
 
=== 明治初頭から現在 ===