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 1951(昭和26)年10月25日、日本航空マーチン202「もく星」号が東京から福岡に向けて飛び立った。日本の空に日の丸の翼が蘇った瞬間であった。後に当時[[GHQ]]参謀の米国空軍大佐アレンは、松尾を「絶望の中の勇者」と呼び、彼の忍耐強い不屈の人間性を尊敬を込めて賞賛した。
 
その後初代の[[運輸省]][[航空庁]]長官を経て、退官後、昭和26年に政府の特殊会社だった[[日本航空]]に天下り、専務。1957年副社長を経て、[[1961年]]二代目社長に就任。ジェット機、さらにはジャンボ機の導入、国内路線・国際路線を開設、日の丸の翼を世界の空へと拡張、併せて安全性を最優先し、「臆病者と呼ばれる勇気を持て」と言う有名な言葉も残した。また、1961年航空審議会委員、62年[[全日本空輸]]取締役、63年[[全日本航空事業連合会]]会長、63年[[日本経営者団体連盟]]常任理事、66年[[日本国内航空]]会長、[[1971年]][[松尾建設]]会長など多数の公職を歴任。[[1971年5月]]には[[東亜国内航空]]取締役相談役に就任するとともに、日本航空では取締役会長に就任。
1971年、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]の欧州七か国歴訪に際しては、日本航空会長の松尾は案内役として同行した。