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旧制佐賀中学(現、[[佐賀県立佐賀西高等学校]])、旧制佐賀高校(現、[[佐賀大学]])を経て、[[九州帝国大学]]工学部機械工学科を卒業後、[[東京瓦斯電気工業]]に入社し、航空エンジンの設計を担当、生涯を空一筋にかける道を歩み始めた。その後、逓信省([[総務省]]、[[日本郵政]]の前身)に入省。[[逓信省]]航空局に入り、1930年(昭和5年)朝鮮総督府航空官をはじめに、蔚山飛行場長、大邱飛行場長、大阪飛行場長、航空局第二部補給課長、同局乗員部第一養成課長などを歴任した。
 
第二次世界大戦後、占領軍総司令部(GHQ)の航空禁止令により航空局は解散、飛行機は破棄・焼却され、軍用機は勿論、民間機も全ての活動が禁止され、航空事業は全面的に停滞した。まさに模型飛行機すらも飛ばすことができず、日本の空を飛ぶのは外国の飛行機だけという有様となった。この状況の中で、松尾は初代の逓信省航空保安部長、さらに戦後の省庁再編で初代の[[電気通信省]][[航空保安庁長官]]として、GHQと粘り強い交渉を重ね、ついに1951(昭和26)年1月、日本人の会社が航空事業を営むことの承認を勝ち得た。
 
 1951(昭和26)年10月25日、日本航空マーチン202「もく星」号が東京から福岡に向けて飛び立った。日本の空に日の丸の翼が蘇った瞬間であった。後に当時[[GHQ]]参謀の米国空軍大佐アレンは、松尾を「絶望の中の勇者」と呼び、彼の忍耐強い不屈の人間性を尊敬を込めて賞賛した。