「源宣方」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yume149 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Yume149 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
1行目:
'''源宣方'''(みなもと の のぶかた、生年不詳 - [[長徳]]4年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]([[998年]][[9月16日]]))は[[平安時代|平安]]中期の貴族。[[宇多源氏]]、六条[[左大臣]][[源重信|重信]]の男、母は西宮左大臣[[源高明]]の女<ref>『[[尊卑分脉]]』</ref>。兄弟に[[源致方|致方]]、[[源相方|相方]]、[[源道方|道方]]など。
 
[[天元]]5年([[982年]])正月、[[藤原道長]]と共に[[昇殿]]を許される。[[正暦左馬寮|左馬助]]を経て、[[永祚]]5年([[994989年]])8)正月時点で[[四位]][[近衛少将|右近衛少将]]<ref>『[[権記正暦]]4年([[993年]])正月時点で[[四位]]』</ref>。[[長徳]]3年([[997年]])9月以前に[[右中将]]に補任<ref>以上官歴は『[[小右記]]』による</ref>。長徳4年([[998年]])8月、疫病のために卒去、時に[[従四位上]][[右中将]]。
 
『[[枕草子]]』に「源中将」の官名で登場し、[[清少納言]]とは昵懇な間柄であった。[[藤原行成]]とも親しく、彼の一周忌に行成は絵師巨勢広貴に不動尊像を描かせ未亡人に贈った<ref>『[[権記]]』</ref>。『[[本朝文粋]]』は彼の後室のために[[大江匡衡]]が書いた七七忌の追善願文を載せ、ほかに[[藤原公任]]や[[藤原顕光]]の哀傷歌も伝わっている。