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'''細川 持賢'''(ほそかわ もちかた)は、[[室町時代]]後期の[[武将]]。[[細川氏#典厩家|細川典厩家]]の祖。[[細川満元]]の3男で[[細川持元|持元]]、[[細川持之|持之]]の弟
 
[[嘉吉]]元年([[1441年]])に[[室町幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]が[[赤松満祐]]に[[暗殺]]される[[嘉吉の乱]]が発生、戦後処理で[[赤松氏]]の領国のうち[[摂津国|摂津]][[中島郡]]は幕府の直轄領となり、持賢は代官に任命され実質上の分郡守護になった。翌年に兄が亡くなり、後を継いだ甥の[[細川勝元]]が幼少のため後見人として幕政に参加、[[管領]][[畠山持国]]と対立した。嘉吉3年([[1443年]])に出家、道賢と号した。
 
義教の介入で大名家に[[お家騒動]]が続発、持国と持賢・勝元の援助で事態は深刻化した。[[信濃国|信濃]]・[[加賀国|加賀]]では[[小笠原氏]]・[[富樫氏]]が家督争いを起こし、持国が推す[[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|小笠原持長]]・[[富樫教家]]・[[富樫成春|成春]]父子に対し持賢・勝元は[[小笠原宗康]]・[[小笠原光康|光康]]兄弟と[[富樫泰家]]を支援、混乱に拍車をかけた。[[文安]]4年([[1447年]])に[[京都]]で起こった[[徳政一揆]]の鎮圧に出陣、戦後に勝元の後見を取りやめた。応仁元年([[1467年]])に[[応仁の乱]]が始まると[[土佐国|土佐]]の軍勢を引き連れ東軍として参戦したが、翌年に死去。[[享年]]66。
 
養子として勝元の弟[[細川成賢|成賢]]と分家の[[細川氏#野州家|野州家]]から[[細川政国|政国]]を迎え、家督は政国が継いだ。
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== 関連項目 ==
*[[加賀両流文安騒動]]
*[[崇禅寺 (大阪市)|崇禅寺]]