「三好京三」の版間の差分

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尾だい (会話 | 投稿記録)
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前沢[[町役場]]勤務を経て、種市町立中野小学校及び種市町立宿戸小学校(現[[洋野町]])に[[助教諭]]として赴任、その後[[1962年]]に旧[[衣川村]]立(現[[奥州市]])衣川小学校大森分校に赴任。[[1971年]]には同校勤務の傍ら6年間掛けて[[慶應義塾大学]][[通信教育部]][[文学部]][[国文学科]]を卒業し、[[1976年]]に退職するまで14年間勤めた。ちなみに同校は、[[2001年]]に学童数の減少により閉校となっている。旧校舎は「ふるさと自然塾」として用いられ、職員室と宿直室は「三好京三記念室」として保存されている。
 
妻が[[子宮]]摘出を受け子どもを授かることができなくなった経緯もあり、友人で[[作家]]・[[社会学者]]として知られる[[きだみのる]]の非嫡出子・千尋を[[養女]]として迎え、その成長過程を描いた[[1975年]]出版の『[[子育てごっこ]]』で[[文學界新人賞]]及び[[直木賞]]を受賞し、これが事実上の文壇デビューとなった。
 
その後、千尋養女との共著も出していたが、千尋養女が上京後に[[ホテトル]]嬢として[[売春]]をおこなっていたことが写真週刊誌にスクープされ、スキャンダルに発展。さらに千尋養女が三好から[[性的虐待]]を受けていたと主張したため、更なるスキャンダルとなった。1986年には、千尋養女が三好を批判する内容の手記を刊行([[広瀬千尋]]『過去へのレクイエム』オーク出版サービス)。同じ1986年には千尋養女と親しい[[花柳幻舟]]が『オッサン何するねん!─文化人エンマ帖』(データハウス)と題する書物を刊行し、118ページにわたって三好を糾弾した。しかし、[[2004年]]に三好はメディアのインタビューに対して「養女とはとっくに和解した」と答えている<ref>[http://gendai.net/?m=view&g=geino&c=070&no=15573 娘から離縁状を突きつけられ、マスコミの餌食に…ゲンダイネット]</ref>
 
彼は数多くの教育論を刊行したが、上記スキャンダル事件以後は少ない。小説には自身の[[教員]]体験や[[東北地方]]に題材を採った作品が多く、[[1987年]]に刊行された『遠野夢詩人』は、『[[遠野物語]]([[柳田國男]])』の話者、[[佐々木喜善]](佐々木鏡石)を題材にしている。また、[[奥州藤原氏]]を題材にしたものなど、平安-鎌倉期を舞台にした歴史小説も多い。
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*いい先生見つけた 潮出版社, 1982
*陽だまりの里津軽 桐原書店, 1982
*三好京三の娘と私 佐々木千尋と共著 講談社, 1982
*子育てに失敗する親しない親 小泉英二と共著 学習研究社, 1982
*笑われたっていいじゃないか ポプラ社, 1984