「連合軍軍政期 (ドイツ)」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
|略名 = 連合軍軍政期(ドイツ
|日本語国名 = 連合軍軍政期(ドイツ)
|公式国名 = '''Besatzungszonen in Deutschland'''
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|先代1 = フレンスブルク政府
|先旗1 = Flag of Germany 1933.svg
|先旗1縁 = no
|次代1 = 西ドイツ
|次旗1 = Flag of Germany.svg
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|次代3 = ザール (フランス保護領)
|次旗3 = Flag of Saar.svg
|次代4 = 西ベルリン
|次旗4 = Flag Flag_of_Berlinof Berlin.svg
|次代5 = 東ベルリン
|次旗5 = Flag of East Berlin (1956-1990).svg
|国旗画像 = Flag of Germany (1946-1949).svg
|国旗リンク = ドイツの国旗
|国旗説明 = 商船旗
|国旗幅 =
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|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = [[1945年]][[5月]]
|変遷2 = [[西ドイツ]]成立
|変遷年月日2 = [[19551949年]][[5月523日]]
|変遷3 = [[東ドイツ]]成立
|変遷年月日3 = [[1949年]][[10月7日]]
|変遷4 = [[ドイツ再統一]]
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==概要==
[[ナチス・ドイツ|ナチスドイツ]]が[[第二次世界大戦]]で敗れると、ドイツは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国4ヶ国軍]]([[アメリカ合衆国|米]]、[[イギリス|英]]、[[フランス|仏]]、[[ソビエト連邦|蘇]])に占領された。連合国軍は、管理目的のために[[1945年]][[5月8日]]から[[1949年]]までの4年間、[[オーデル・ナイセ線]]の西でドイツを4つに分割占領して[[軍政]]を布いた。
 
第二次世界大戦末期に、[[アメリカ軍]]は、[[ヤルタ会談]]と[[ロンドン議定書]]で同意された、ラインを超えて最大200マイルに渡って東側へ進出しており、戦争終結後の[[赤軍|ソビエト赤軍]]と[[アメリカ軍]]間の境界線は暫定であった。戦争終結後2ヶ月間、アメリカ軍はソ連占領予定区域に滞在した後、1945年7月初めに撤退した。このことは、同じ頃(1945年7月)に[[ベルリン]]における各国の占領予定区域に[[アメリカ]]、[[イギリス]]、[[フランス]]の各軍が駐留することを[[ソビエト連邦|ソ連]]に容認させるにあたり重要な役割を果たしたという意見もあるが、一方でこの点に関しては情報収集のための必要性があったという要素も考えられる([[ペーパークリップ作戦]]参照)。
 
== 占領区域 ==
[[File:Painting of Stalin on the Unter-den-Linden.jpg|thumb|300px|ベルリンに設置された指導者[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の肖像]]
=== ソ連占領区域 ===
ソ連占領区域は[[テューリンゲン州]]、[[ザクセン州]]、[[ザクセン=アンハルト州]]、[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]が盛り込まれた。[[ソ連軍政当局]](SMAD)は[[ベルリン]]のカールスホルストに置かれた。ソ連占領地のうち、[[旧ドイツ東部領土|ドイツ東部]]はソ連とポーランドに併合されることが連合国によって決定され、[[ケーニヒスベルク]]はソ連領[[カリーニングラード]]となり、東プロシア、東ポメラニア、東ブランデンブルク、シレジアなどはポーランド西部領となった。これらの地域とヨーロッパ諸国に居住していたドイツ人・ドイツ系住民1,200万人の追放が行われ、その過程で200万人が死亡した<ref name=PrauserRees>{{cite book
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=== フランス占領区域 ===
フランスは連合国の有力な一員であったが、伝統的なドイツとの対立関係と、「フランスは軍事的貢献度が少ない」という[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の反対意見により、最初は駐屯の予定がなかった。しかし、結局、アメリカ、イギリス両国がフランス国境に面した、隣接しない2つの小さな区域をフランスに割り振ることに同意した。[[フランス軍]]政当局は[[バーデン・バーデン]]に置かれた。
 
さらに、1947年に[[ザールラント州|ザールラント]]は[[ザール (フランス保護領)|フランス保護領]]とされたほか、ドイツ重工業の発展阻害とヨーロッパ再建のための資源供給を意図した[[モネ計画]]では[[ライン川]]以西のドイツ領内を統制しようと試みた。また、ルール地方の国際管理、ラインラントの併合なども主張した。
 
=== ベルリン ===
ベルリンはソ連占領区域の内部に位置したが、ナチスドイツの首都であり、その象徴性から連合4か国の共同統治区域とされ、ソ連占領区域とはされなかった。
 
== 2つのドイツの誕生 ==
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フランスはポツダム会議および同協定には参加できず、協定の一部を承認するに留まり、戦後のドイツ人追放者の問題にはフランスがドイツ人追放を否認したという立場を維持したので、フランス占領域に存在する国外追放者を扶養することに責任を負わなかった。1947年7月にフランス軍が駐留するまでに存在した少数の避難民については面倒を見たが、それ以外に東側から来た追放者をフランス軍駐留域に入れることは拒否した。1945年2月から5月にかけて[[デンマーク]]に避難していたドイツ人難民25万人をフランス軍政府は1946年12月に受け入れたが、これはあきらかに東部からの避難民であった。
 
その後、アメリカの[[マーシャル・プラン]]によるドイツ占領計画の変更により、難民たちは徐々に救済され、1949年4月、「被追放ドイツ人中央連合会」(ZvD) を設立、後に「被追放者連盟-統一郷土人会・郷土連盟」(BdV) に発展した。また、1949年9月に発足したアデナウアー政権では、難民救済を主目的とした「[[難民省 (旧西ドイツ)|難民省]]」が設立され難民救済を行った。
 
1946年10月29日付けの占領地における人口(ザールラント除く)<ref>Deutscher Städtetag: Statistisches Jahrbuch Deutscher Gemeinden. Alfons BürgerVerlag, Schwäbisch Gmünd 1949</ref>
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==== 軍政府 ====
* 1945年5月22日 - 1946年4月30日:[[バーナード・モントゴメリー]]
* 1946年5月1日 - 1947年10月31日:[[ショルト・ダグラス]] ([[:en:Sholto Douglas, 1st Baron Douglas of Kirtleside|ウィリアム・ダグラスen]])
* 1947年11月1日 - 1949年9月21日:[[ブライアン・ロバートソン]] ([[:en:Brian Robertson, 1st Baron Robertson of Oakridge|ブライアン・ロバートソンen]])
 
====高等弁務官====
* 1949年9月21日 - 1950年6月24日:ブライアン・ロバートソン
* 1950年6月24日 - 1953年9月29日:[[:en:Ivone Kirkpatrick|イヴォーニ・カークパトリック]] ([[:en:Ivone Kirkpatrick|en]])
* 1953年9月29日 - 1955年5月5日:[[フレドリック・ミラー]] ([[:en:Frederick Millar, 1st Baron Inchyra|フレドリック・ミラーen]])
 
=== フランス占領区域 ===
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==== 軍政府 ====
* 1945年7月 - 1949年9月21日:[[マリーピエール・ケーニグ]]([[:en:Marie- Pierre KoenigKœnig|en]])
 
==== 高等弁務官 ====
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==== 高等弁務官 ====
* 1953年5月28日 - 1954年7月16日:[[:en:Vladimir Semyonovich Semyonov|ウラジミール・セミョーノヴィッチ・セミョーノフ]] ([[:en:Vladimir Semyonovich Semyonov|en]])
* 1954年7月16日 - 1955年9月20日:ゲオルギー・マクシモーヴィッチ・プーシキン(Georgy Maksimovich([[:ru:Пушкин, Pushkin)Георгий Максимович|ru]])
 
=== アメリカ占領区域 ===
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* 1945年5月8日 - 1945年11月10日:[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]
* 1945年11月11日 - 1945年11月25日:[[ジョージ・パットン]](代行)
* 1945年11月26日 - 1947年1月5日:[[:en:Joseph T. McNarney|ジョセフ・T・マクナーニー]] ([[:en:Joseph T. McNarney|en]])
* 1947年1月6日 - 1949年5月14日:[[:en:Lucius D. Clay|ルシアス・D・クレイ]] ([[:en:Lucius D. Clay|en]])
* 1949年5月15日 - 1949年9月1日:[[:en:Clarence R. Huebner|クラレンス・R・ヒューブナー]] ([[:en:Clarence R. Huebner|en]])(代行)
 
==== 高等弁務官 ====
* 1949年9月2日 – 1952年8月1日:[[:en:John J. McCloy|ジョン・J・マクロイ]] ([[:en:John J. McCloy|en]])
* 1952年8月1日 – 1952年12月11日:ウォルター・J・ダネリィ
* 1952年12月11日 – 1953年2月10日:サミュエル・リーバー(代行)
* 1953年2月10日 – 1955年5月5日:[[:en:James Bryant Conant|ジェームズ・B・コーナント]] ([[:en:James Bryant Conant|en]])
 
== 脚注 ==