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[[ファイル:Juan Gotoh's mausoleum.jpg|thumb|220px|[[後藤寿庵]]廟堂]]
* 伊達政宗は[[平泉]]を含む[[岩手県]]南部([[北上市]]まで)を支配した。当初、[[水沢]]には代官が置かれていたものの、後に伊達政宗の従兄弟にあたる[[留守宗利]]が入ると、以後は留守宗利を祖とする「[[水沢伊達氏]]」の支配が[[幕末]]まで230余年間続いた。なお、留守宗利は父、[[留守政景]](政宗の叔父)の代から「伊達氏」を名乗っている。水沢は[[奥州街道]]が南北を貫き、手倉街道と盛街道が交差する交通の要所であったため[[宿場町]]として栄え、商人の町として町人文化も栄えた。この頃から近世城下町・水沢の原型が出来上がっていった。
* [[キリシタン大名]]である後藤寿庵は、政宗の家臣で見分に千二百石を領した。彼は自分の家臣や領民をキリシタンに帰依させ、居館の傍に天主堂やクルス場(墓地)をおき、この地を聖書の福音にちなんで福原に改めた。ここに各地から外国人宣教師や信者が多く移り住み、外国人宣教師が訪れ、福原は東北地方のキリシタン布教の拠点となった。また、慶長17年から元和9年には、寿庵が私財を投じて[[胆沢川]]の水を引く用水堰の開削に尽力し、[[イエズス会]]・[[宣教師]]アンジェリスをして「アラビアの砂漠の如し」と言わしめた胆沢平野の開墾に大きな功績を残した。しかし、熱心なキリスト教信者だった寿庵は、年々厳しさを増す切支丹弾圧から逃れるため、堰の完成を待たずして逃亡を図った。
* 寛永8年、寿安の意志を受け継いだ、関村(現・前沢区)の千田左馬と、目呂木村(現・前沢区)の遠藤大学の指導の元、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿安堰が完成した。