「アレクサンドル・オルロフ」の版間の差分

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1936年12月から[[スペイン第二共和政|共和国]]の防諜機関SIMの組織に直接参加し、[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]軍のエージェントの工作、[[パルチザン]]・グループの訓練を指導した。彼が設立した破壊工作学校では、1,000人以上が教育を受けた。彼の直接指導の下、[[カタルーニャ]]での[[スペインのアナキズム|アナーキスト]]とソ連から[[トロツキスト]]と看做されていたマルクス主義組織[[マルクス主義統一労働者党]](POUM)の武装反乱の鎮圧作戦が行われた。1937年6月、彼によりPOUMのリーダー、[[アンドレウ・ニン]]の刑務所からの誘拐、殺害が計画された。
 
1937年末、オルロフはスペイン当局には秘密で、コードネーム「ストロイーチェリストヴォ」(''{{lang-ru|Строительство}}'')と呼ばれた非合法諜報学校を組織した。学生は、[[国際旅団]]兵士中から綿密に選抜され、その卒業生は、フランスを経由して任務と共に世界各国に派遣された。スペインでは、フランコ政府の元にいたキム・フィルビーと再び連絡を取った。1938年4月、オルロフは、アメリカ出身の国際旅団兵士、[[{{仮リンク|モリス・コーエン (スパイ)|label=モリス・コーエン]]|en|Morris Cohen (spy)}}(後の原爆スパイ)を徴募した。
 
ソ連が[[大粛清]]の最中にあった1938年7月、オルロフは、[[セルゲイ・シュピーゲリグラス]]と会見するために[[アントワープ]]に向かうよう命令を受けた。オルロフは逮捕を恐れて、妻女と共に西側に逃亡し、その後、イーゴリ・ベルグ({{lang-ru|Игорь Константинович Берг}})名義で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーヴランド]]に落ち着いた。