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備前国では浜野([[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]浜野)や網浜(岡山市[[中区 (岡山市)|中区]]網浜)付近を拠点とし、近隣の[[豪族]]を味方に付けて勢力を盛り返しつつあったところ、興国4年/康永2年(1343年)に[[赤松氏]]の軍勢が来襲し備前国網浜([[網浜の戦い]])で1度は撃退したが、2度目の来襲時に裏切者がでて敗退し進退窮まり、摂津国にいる嫡男頼仲に「多田家は累世未だ武家に仕えたる先例が無い、もし将軍に仕えるなら氏を能勢に改めて仕えよ」と遺言し8月12日に自害した。
 
足利尊氏は後にそのことを聞き頼貞の勤王心に感涙し頼仲に能勢の所領を安堵するとともに備前17郷を与えたという。文献で見る限り義理人情に厚く、人使いの上手い人物であることが伺える。
 
== 脚注 ==
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*[[金光宗高]] 「[[備前軍記]]」に能勢頼吉の弟と記述あり。
*[[松寿寺 (岡山市)|松寿寺]] [[大覚]]による開基。頼貞の生き様に感動した[[池田継政]]建立の廟堂(頼貞廟堂)がある。
*[[妙勝寺 (岡山市)|妙勝寺]] 大覚の法話に感じ入った頼貞が大覚の居所を寺院にした。
*[[多田氏]]
*[[能勢氏]]
 
[[category:鎌倉時代の武士]]