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'''日野 義資'''(ひのよしすけ、[[応永]]4年([[1397年]]) - [[永享]]6年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]([[1434年]][[7月15日]]))は[[室町時代]]の
応永14年
[[足利義教]]が6代将軍に決定すると、義教の御座所として自宅の裏松邸を提供した。また、[[足利義持|義持]]夫人[[日野栄子]]と協議して、妹の[[日野宗子|宗子]]を義教の正室に立てている。しかし、義教が将軍になると[[青蓮院]]門跡時代の義教に不忠の廉があったとして、所領を二ヶ所没収され、蟄居を命じられた。将軍の御台所となった宗子は義教と不仲であり、永享3年([[1431年]])に離別されている。その後、もう一人の妹[[日野重子|重子]]が義教の側室となった。
重子が嫡子・[[足利義勝|千也茶丸]]を産んだ時、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者すべてを処罰する。そして
家督を継いでいた嫡男・[[日野重政|重政]]もこの際に所領を没収されて出家しており、日野家は一時没落した。
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[[Category:1434年没]]
[[Category:日野家|よしすけ]]
[[Category:殺人被害者]]
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