「カン (バンド)」の版間の差分

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== 概要 ==
1968年、イルミン・シュミット([[:en:Irmin Schmidt]])、[[ホルガー・シュカイ]]、ヤキ・リーベツァイト([[:en:Jaki Liebezeit]])、ミヒャエル・カローリ([[:en:Michael Karoli]])の4人のドイツ人と、アメリカ人の実験音楽家デイヴィッド・ジョンソン([[:en:David C. Johnson]])によって[[ケルン]]で結成された<ref>最初期は「インナー・スペース」の名で活動していたが、1stの発表時には「ザ・カン」、その後現行の名前となった{{要出典|date=2011-8}}。</ref>。
イルミン、ホルガー、デヴィッドは[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]の教室の同窓生で、それ以前にはアカデミックな音楽教育も充分受けていた。イルミンはシュトックハウゼンのほか[[リゲティ・ジェルジ]]や[[ルチアーノ・ベリオ]]のもとでも学んでピアニストや指揮者としての訓練を積んたほか、かねてから[[ジョン・ケージ]]と交流し、1960年代中盤には渡米して[[スティーヴ・ライヒ]]、[[ラ・モンテ・ヤング]]、[[テリー・ライリー]]とも共演するなど、当時有望な若手現代音楽家と目されていた(ケージの作品をドイツ国内で最も早い段階で演奏した)。ホルガーは電子機器のエンジニアリング技術に長けていた。ヤキは[[フリー・ジャズ]]・シーンでキャリアを積み、[[チェット・ベイカー]]、テテ・モントリュー([[:en:Tete Montoliu]])などのビッグ・ネームと競演した経験があった。ギタリストのミヒャエルはスイスの高校時代にホルガーの生徒だったが、年長のホルガーたちに逆に[[フランク・ザッパ]]、[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]、[[ビートルズ]]などのロックを教えた。またイルミン、ホルガー、ヤキは[[雅楽]]への関心を示し、ミヒャエルはアフリカ音楽を愛好するなど、民族音楽への関心も持ちあわせていた。
 
イルミン、ホルガー、デヴィッドは大学の[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]教室の同窓生で、それ以前にはアカデミックな音楽教育も充分受けていた。イルミンはシュトックハウゼンのほか[[リゲティ・ジェルジ]]や[[ルチアーノ・ベリオ]]とでも学んでついてピアニストや指揮者としての訓練ほか、かねてから[[ジョン・ケージ]]と交流し、1960年代中盤に渡米して[[スティーヴ・ライヒ]]、[[ラ・モンテ・ヤング]]、[[テリー・ライリー]]とも共演するなど、当時有望な若手現代音楽家と目されていた<ref>ケージの作品をドイツ国内で最も早い段階で演奏したという。</ref>。ホルガーは電子機器のエンジニアリング技術に長けていた。ヤキは[[フリー・ジャズ]]・シーンでキャリアを積み、[[チェット・ベイカー]]、テテ・モントリュー([[:en:Tete Montoliu]])などのビッグ・ネームと競演した経験があっするなど[[フリー・ジャズ]]・シーンでキャリアを積んでいた。ギタリストのミヒャエルはスイスの高校時代にホルガーの生徒だったが、年長のホルガーたちに逆に[[フランク・ザッパ]]、[[ヴェルヴェット・アンダーグラウンド]]、[[ビートルズ]]などのロック、先生であるホルガーに逆に教えた。またイルミン、ホルガー、ヤキは[[雅楽]]への関心を示しがあり、ミヒャエルはアフリカ音楽を愛好するなど、メンバーたちは民族音楽への関心もに対して親近感をちあわせていた。
バンドを始めることに決めたかれらは、知り合いの貴族に貸してもらったネルフェニッヒ城館をインナー・スペース・スタジオと名付け、そこでセッションを始めた。しかしデイヴィッド・ジョンソンは早々に離脱。そのあとボーカリストに彫刻家・詩人のマルコム・ムーニー([[:en:Malcolm Mooney]])がボーカリストとして参加した<ref>徴兵忌避のため在独していたアフリカ系アメリカ人で、知り合いだったイルミンのスカウトにより参加した{{要出典|date=2011-8}}</ref>。マルコムは1st、2ndに参加したのち脱退。そのあとカンと偶然のように出会い採用された若い日本人ヒッピーの[[ダモ鈴木]]は、カンの全盛時代を象徴するような存在となった。
 
彼らはバンドを始めることに決めたかれらは結成し、知り合いの貴族に貸してもらったネルフェニッヒ城館をインナー・スペース・スタジオと名付け、そこでセッションを始めた。しかしデイヴィッド・ジョンソンは早々に離脱。そのあとボーカリストとして彫刻家・詩人のマルコム・ムーニー([[:en:Malcolm Mooney]])がボーカリストとして参加した<ref>徴兵忌避のため在独していたアフリカ系アメリカ人で、知り合いだったイルミンのスカウトにより参加した{{要出典|date=2011-8}}</ref>。マルコムは1st、2ndに参加したのち脱退。後任あとボーリストには、ミュンヘと偶然ように出会路上でパフォーマンスをして採用された若い日本人ヒッピーの[[ダモ鈴木]]がホルガーとヤキによってスカウトされた。彼の個性的なキャラクターバンドの音楽とうまく適合し、カンの全盛時代を象徴するような存在となった。
 
バンド名の由来は、英語の可能を意味する助動詞「Can」、「Communism」(共産主義)・「Anarchism」(無政府主義)・「Nihilism」(虚無主義)の頭文字を並べたもの、メンバーがあらゆるアイデアを放り込むカン(缶)、日本語の「感」や「勘」に由来するなどと説明されているが、実質的なリーダーであったイルミンは、最新のインタビューで「マルコムとヤキが提案した名前に賛成しただけ」と述べている<ref>『Remix』2005年9月号におけるイルミンのインタヴュー</ref>。