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'''ノルマン・コンクエスト'''([[英語]]:'''The Norman Conquest of England''')は、[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]]ギヨーム2世による[[イングランド王国|イングランド]]への征服を指す。コンクエストを[[日本語]]にし、'''ノルマン征服'''ともいう。[[1066年]]の[[ヘイスティングズの戦い]]に勝利したギヨーム2世は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として[[ノルマン朝]]を開いた([[ウェストミンスター寺院]]での戴冠式は同年[[12月25日]])。これによりイングランドは[[ノルマン人]]により支配されることとなった。
 
ノルマン・コンクエストはイングランドの歴史の分水嶺となり、[[デンマーク]]付近([[ゲルマン人]]の領域)の強い政治的・文化的影響から離れ、ラテン系の[[フランス]]と政治的にも文化的にも強く関係することになる。
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==背景==
[[11世紀]]の[[イングランド王国|イングランド]]は、[[デーン人]]の王朝([[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]・[[クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌート1世]]など)の後、[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]]の支援を受けたアングロ・サクソン王朝の[[エドワード懺悔王]]が即位したが、その支配はデーン人と[[ノルマン人|ノルマンディー人]]の影響力の脆いバランスの上に立ったものだった。この不安定な状況が、後に外部の介入を招く伏線となった。
 
エドワード懺悔王には息子がいなかったので、甥で異母兄[[エドマンド2世 (イングランド王)|エドマンド2世]]の息子[[エドワード・アシリング]]をあらかじめ後継者に迎えていたが、エドワード・アシリングが亡くなると、その幼い息子[[エドガー・アシリング]]を後継者とした。しかし、[[1066年]]に懺悔王が亡くなると、年少(15歳前後)のエドガーは無視された。代わりに、王妃エディスの兄で最大のサクソン貴族であった[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド・ゴドウィンソン]]が、サクソン諸侯会議によって王(ハロルド2世)として選ばれた。
 
その後、紛糾が起こった。ハロルド2世の弟[[トスティ・ゴドウィンソン|トスティ]]は、[[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|]][[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世]]と組んで王位を主張した。一方、[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]]ギヨーム2世(エドワード懺悔王の従甥)は、エドワード懺悔王から後継者に指名されていたと主張した。さらにギヨーム2世は、以前ハロルドがギヨーム2世の後継を承認する誓い(聖骨の誓い)をしており、即位は破誓であり無効だとし、[[教皇|ローマ教皇]][[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]の承認を得た。かくして状況は紛糾、これを解決するのは武力しかないというありさまになった。
 
==戦い==
1066年、ハロルドの戴冠後に、まずトスティが反旗を起こした。トスティはイングランド南部を荒らした後、北の[[スコットランド王国|スコットランド]]に移り、ハーラル3世と組んで再び攻勢をしかけた。一方、ギヨーム2世は配下のノルマンディー諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って南方から攻勢をしかけた。ハロルド2世は北方と南方から挟まれる形になった。
 
この状況で、まず北方のトスティが攻勢をしかけた。ハロルド2世の軍は激戦の末にこれを撃破した([[スタンフォード・ブリッジの戦い]])が、疲弊した。そこへ南方からギヨーム2世が攻勢をしかけた。イングランドに上陸し、優秀な騎馬や相手の戦術ミスなどでハロルド2世の軍を撃破、ハロルド2世を討ち取った([[ヘイスティングズの戦い]])。
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以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世はイングランドの統一を推進した。ノルマンディー式の[[封建制]]を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の[[騎士]]たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官([[シェリフ]])を置いて、王の支配を全土に及ぼした。
 
緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世の一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された(前述)。その後も[[1070年]]にデーン人、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|]]などの支援を受けて[[ヨークシャー]]など北部で反乱が起きた。所領を奪われたサクソン人やデーン人達は[[ロビン・フッド]]のモデルの1人といわれる[[ヘリワード・ザ・ウェイク]]を首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された([[1074年]])。これ以降、イングランドは安定した。
 
エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉[[マーガレット・オブ・スコットランド|マーガレット]]は後にスコットランド王[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]と結婚した。2人の間の娘[[マティルダ・オブ・スコットランド|イーディス(マティルダ)]]は後にサクソン人とノルマン人の融和の証として[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]と結婚することになる。
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== 影響 ==
[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]]の封建臣下であるノルマンディー公が同時に[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|]]を兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、[[プランタジネット朝]]においてさらに激しくなり、[[百年戦争]]を引き起こすことになる。また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。
 
ウィリアム1世に従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後しだいに[[ウェールズ]]、[[アイルランド]]東南部、[[スコットランド]]にも広がってゆき、フランス北西部と[[ブリテン諸島]]は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。