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| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = 陸奥権守、[[従六位#従七位|従七位下]]、[[従五位]]、散位、[[修理職|修理大夫]]?
| 氏族 = [[藤原氏]]
| 父母 = 父:[[藤原頼遠]]、母:[[平国妙]]姉妹
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'''藤原 経清'''(ふじわら の つねきよ、生年不詳 - [[康平]]5年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1062年]][[10月22日]]))は、[[平安時代]]中期の[[陸奥国]][[亘理郡]]の[[豪族]]。『[[尊卑分脈]]』によると[[藤原秀郷]]の6代後で、父は[[下総国]]住人[[藤原頼遠]]。母は[[平国妙]]の姉妹。室は[[安倍頼時]]の娘。[[平将門の乱]]の平定に活躍した[[藤原秀郷]]の6代後。子に[[奥州藤原氏]]の初代[[藤原清衡|清衡]]。
 
== 系譜 ==
 
[[藤原秀郷]]-[[藤原千時|千時]]-[[藤原千清|千清]]-[[藤原正頼|正頼]]-[[藤原頼遠|頼遠]]-'''経清'''-[[藤原清衡|清衡]]-[[藤原基衡|基衡]]-[[藤原秀衡|秀衡]]-[[藤原泰衡|泰衡]]
 
== 経歴 ==
[[陸奥国|陸奥権守]][[従六位#従七位|従七位下]]に叙せられ後、散位。亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)と称したと言われている(大夫は五位の[[官人]]の異称)。『[[尊卑分脈]]』によれば「亘権守・亘理権大夫」とあるが、「権大夫」という職位がどんな役職であるか、実際にどのような官職であったか判明していない。ただ、子の清衡も権大夫<ref>[[http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_21.html]]</ref>であったこともあり、地位を証明する信頼の置ける史料は現存していないが、[[在庁官人]]として陸奥国府[[多賀城]]に勤務していたと見られている。
 
その名が登場する史料は、長年『[[陸奥話記]]』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、近年、[[永承]]2年([[1047年]])の五位以上の[[藤原氏]]交名を記した『[[造興福寺記]]』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されている。この史料によると、少なくとも[[藤原氏]]の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められており[[従五位]]に昇任し散位ではあったようである。
 
[[長久]]元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により、[[修理職|修理大夫]]として在京し、[[陸奥守]][[藤原登任]]の下向に同行したとの説がある。[[俘囚]]長で[[奥六郡]]の支配者である[[安倍頼良]](頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の[[鹿島神社]](現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから高い交通税を課し財力を蓄えていたとされ<ref>[[菅野円蔵]]『大鳥城記』[[山川出版社]]、1970年</ref>、さらに[[平国妙]]の外戚と言う記述が『[[奥州御舘系図]]』に見えることから2,3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある<ref>[[高橋富雄]]『<small>奥州藤原四代</small>平泉』[[教育社]]、1993年、ISBN4-315-40158-7</ref>。
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やがて[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]が朝廷への貢租を怠る状態になったため、[[永承]]6年([[1051年]])に陸奥守登任は安倍氏征討の兵を出したが鬼切部の戦いで逆に敗れてしまった([[前九年の役]]の始まり)。この戦いで経清は安倍氏側に属していたが、翌永承7年([[1052年]])に、更迭された登任の後任として[[源頼義]]が陸奥守に任じられ、大赦によって許された頼時が[[朝廷]]に帰服すると、経清もまた頼義に従った。[[天喜]]4年([[1056年]])、[[阿久利川事件]]をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、経清は陸奥守頼義に従って参戦するが、経清と同じく頼時の娘を妻に迎えていた[[平永衡]]が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅の頼時に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺されてしまう。我が身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。翌天喜5年([[1057年]])の黄海の戦いで安倍氏が大勝した後、戦況は膠着し、[[康平]]2年([[1059年]])ごろには[[衣川]]以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。
康平5年([[1062年]])、頼義は膠着した戦況を打開するため、安倍氏と同じ俘囚の長であった[[出羽]][[仙北三郡]]の[[出羽清原氏|清原氏]]に多くの財宝を送って援兵を求めた。清原氏の協力で頼義は安倍氏を滅ぼし、前九年の役は終結した。頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の経済力によるところや計略があったとする説もあり<ref>菅野円蔵『大鳥城記』山川出版社、1970年</ref>、経清に対する頼義の恨みは殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された<ref>『陸奥話記』の述べる所では、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とある。</ref>。
経清亡き後、妻は七歳の遺児[[藤原清衡|清衡]]を連れ、前九年の役で敵対した[[清原武貞]]と再婚。清衡は[[後三年の役]]の後に清原の地を治め姓も元の藤原姓に戻し[[奥州藤原氏]]の祖となる。