「ルイス・ゴンザレス (内野手)」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 米国時代 ===
{{by|1996年}}に[[クリーブランド・インディアンス]]へ入団。1A・2A・3Aと徐々に昇格。{{by|2003年}}[[ルール5ドラフト]]で[[コロラド・ロッキーズ]]に移籍。{{by|2004年}}開幕スタメンで、[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビューを果たす。こ試合で戦相手の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]戦(開幕戦)でデビューするが、こ試合で[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]とともに本塁打を放ったが、<ref>1試合で同姓同名の2人の選手が本塁打を放つのは{{by|1990年}}[[シアトル・マリナーズ]]のケン・グリフィー[[ケン・グリフィー・シニア|親]][[ケン・グリフィー・ジュニア|子]]([[シアトル・マリナーズ]])が連続本塁打を放って以来メジャーリーグ史上2度目のことであった。ただし、こちらのゴンザレス2人は名に血縁関係ない。</ref>。そ他人後、二塁手として定着したが、{{by|2006年}}は両手首の故障などがあり、61試合の出場に留まる<ref>ゴンザレスの離脱を受けて、代役として獲得したのが[[松井稼頭央]]である。</ref>
{{by|1996年}}、[[クリーブランド・インディアンス]]に入団。1A、2A、3Aと徐々に昇格。
 
{{by|2007年}}1月に読売ジャイアンツが獲得を発表。
 
=== 巨人時代 ===
{{by|2003年}}、[[ルール5ドラフト]]で[[コロラド・ロッキーズ]]に移籍。{{by|2004年}}開幕スタメンで、[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビューを果たす。この試合で対戦相手の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]の[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]とともに本塁打を放ったが、1試合で同姓同名の2人の選手が本塁打を放つのは{{by|1990年}}に[[シアトル・マリナーズ]]のケン・グリフィー[[ケン・グリフィー・シニア|親]][[ケン・グリフィー・ジュニア|子]]が連続本塁打を放って以来メジャーリーグ史上2度目のことであった。ただし、こちらの2人は血縁関係のない赤の他人である。
[[脇谷亮太]]・[[小坂誠]]とともに二塁手のレギュラーを争い、[[二岡智宏]]の故障による小坂の遊撃手復帰、脇谷も三塁手へ移動したため、レギュラーは確定的と見られていた。ゴンザレスも期待通りにオープン戦で好調を維持し続けたため、{{by|2007年}}[[3月30日]]の対[[横浜ベイスターズ]]戦([[横浜スタジアム]])に出場すると、[[三浦大輔]]から左中間へ決勝本塁打を放った。しかし、次の打席で手首に受けた死球によって患部に水が溜まり、4月6日に降格した<ref>[[町田浩徳]]によると、この死球で手首を骨折していた。</ref>。5月に再昇格したものの、古傷の手首痛が発症して降格するなど、一軍と二軍を行ったり来たりの日々が続く。[[9月12日]]に再昇格すると、[[9月19日]]の対[[阪神タイガース]]戦([[阪神甲子園球場]])で[[ライアン・ボーグルソン]]から先制満塁本塁打を放ち、勝利に貢献した。この年は打率.247・3本塁打の成績に終わったが、得点圏打率.375と勝負強さを発揮し、堅実な守備でも貢献。優勝が決定していた[[10月2日]]には追撃の特大本塁打を放つなど、優勝にも大きく貢献した。
 
{{by|2008年}}はオープン戦で絶好調だったものの、外国人枠が[[セス・グライシンガー]][[マーク・クルーン]][[李承ヨプ (野球)|李承燁]][[アレックス・ラミレス]]で埋まってしまっていたために開幕2スタートとなで迎える。しかし、[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]の不振による登録抹消と入れ替わりに1軍昇格すると、一塁や二塁で堅実な守備を見せ、打撃でも[[4月29日]]の[[広島東洋カープ|広島戦]]ではシーズン1号となる勝ち越し本塁打を放ち、来日初のお立ち台にも上った。その後、[[セ・パ交流戦]]初戦で4安打を放つなど、本領を発揮してチームに貢献していたが、同年[[5月23日]]、死球による脇腹の打撲を理由に降格。その後、ドーピング違反が発覚したため、5月26日に解雇。[[6月6日]]に自由契約公示された(詳細は後述を参照)
その後正[[二塁手]]として定着したが、{{by|2006年}}は両手首の故障などがあり、61試合の出場にとどまった。その際ロッキーズが獲得したのが、[[松井稼頭央]](現:[[東北楽天ゴールデンイーグルス]])である。
 
===日本時代 巨人退団後 ===
{{by|2007年}}1月に巨人が獲得を発表。[[脇谷亮太]]や[[小坂誠]]とともに[[二塁手]]のレギュラーを争い、[[二岡智宏]]の故障出遅れによる小坂の[[遊撃手|ショート]]復帰、脇谷もショート・[[三塁手|サード]][[コンバート (野球)|コンバート]]の可能性もあるため、レギュラーはほぼ確定的と見られていた。
 
オープン戦でも好調を維持し続けたため、2007年[[3月30日]]、対[[横浜ベイスターズ|横浜]]との[[開幕戦]]にスタメン出場を果たす。この試合で、[[三浦大輔]]から左中間スタンドに決勝点となる来日初[[本塁打]]を放った。しかし次の[[打席]]に手首に受けた[[死球]]によって患部に水が溜まり[[4月6日]]に二軍降格した(あまり知られていないが実は[[骨折]]していた([[G+]]実況[[町田浩徳]]談))。
 
5月に一度昇格したものの同箇所の痛みで再降格、その後古傷の手首痛も発症した。しかし[[9月12日]]に再昇格。[[9月19日]]、対[[阪神タイガース|阪神]]戦で[[ライアン・ボーグルソン]]から先制点となる満塁本塁打を放ち、勝利に貢献した。
 
結局シーズンで打率.247 本塁打3という低い成績に終わったが、得点圏打率は.375と勝負強さを発揮し、堅実な守備でもチームに貢献。さらに巨人が優勝を決定した[[10月2日]]には0-3でリードを許している場面で追撃の特大本塁打を放つなど、巨人の優勝にも大きく貢献した。
 
{{by|2008年}}は、オープン戦で絶好調だったものの、外国人枠が[[セス・グライシンガー]]、[[マーク・クルーン]]、[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]、[[アレックス・ラミレス]]で埋まってしまっていたために開幕2軍スタートとなる。しかし、[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]の大不振による登録抹消と入れ替わりに1軍昇格すると、一塁や二塁で堅実な守備を見せ、打撃でも[[4月29日]]の[[広島東洋カープ|広島戦]]ではシーズン1号となる勝ち越し本塁打を放ち、来日初のお立ち台にも上った。
 
その後、[[セ・パ交流戦|交流戦]]初戦で4安打を放つなど、本領を発揮してチームに貢献していたが、[[5月23日]]に、[[5月15日]]の[[横浜ベイスターズ]]戦で三浦大輔から受けた死球によるわき腹の打撲が悪化したとの理由で登録抹消。その後、ドーピング違反が発覚。[[5月26日]]に解雇され、[[6月6日]]に自由契約公示された(詳細は後述を参照)。
 
===現在===
帰国後、古巣である[[コロラド・ロッキーズ]]とマイナー契約を結んだ。