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===不遇の晩年===
[[文久]]2年([[1862年]])5月、御留守居番就任に伴い、蕃書調所(この年「洋書調所」と改称し、さらに「開成所」となる)の頭取は解任された(原因は不明)。以後4年間は失職し、不遇の内に過ごす。[[慶応]]2年([[1866年]])[[横須賀造船所|製鉄所]]奉行として復職。翌年には[[目付]]となり、筑後守に補任される。[[江華島]]を巡る[[フランス]]と[[李氏朝鮮]]の紛争の仲介任務を託されるが、幕末の混迷により未遂に終わった。同年[[緒方洪庵]]の墓碑銘を記す。
慶応3年([[1867年]])10月の[[大政奉還]]の直後には、[[滝川具挙]]などと共に上京の命を受けた。