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'''灯台社'''(とうだいしゃ)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にある[[ものみの塔聖書冊子協会]]日本支部としてかつて存在していた団体。
=== 宗教法人ものみの塔聖書冊子協会 ===
1926年9月6日にアメリカ在住の日本人、明石順三が協会の任命を受けて来日。翌1927年の初頭に彼は神戸に支部を開設するが、その年の後半には東京の銀座へと移転、さらに荻窪へと移転し、そこに印刷工場を設置する。彼は組織の名称を'''灯台社'''と命名する。1933年5月に治安維持法違反の嫌疑により明石を含む数名が逮捕されるが、証拠不十分として釈放される。その後、1939年に日本(6月21日)、台湾(6月22日)、朝鮮(6月29日)の130人の灯台社関係者が一斉検挙され、日本が終戦を迎えるまでその活動は停止状態にあった。<ref>『ものみの塔』1973年9月15日号573-575ページ、『エホバの証人の1998年の年鑑』68ページ、『1988年の年鑑』149ページ</ref>1947年、明石は戦後の活動再興のための支部統括を引き受けるにあたり、ノア会長宛てに協会の有り方に関する公開質問状を8月25日付で送付した。これに対しノア会長は「牧師会の会員中より除名」との書状を送付した。<ref>明石自身は自分が任命される前の1926年以降のものみの塔に同意していなかった旨を上奏、これを知った会長らが除名した。「1978年の年鑑」215ページ
* [http://www.geocities.jp/todai_sha/events/nenpyo.html 灯台社出来事年表]
* [http://www.geocities.jp/todai_sha/index.html 灯台社を調べるページ]</ref>
 
== 概要 ==
戦後、宣教者が順次日本に派遣される。第一陣は1949年に来日したギレアデ第11期生であり、日本の各主要都市に宣教者の家が設けられる。1949年1月から1962年9月にかけて、東京都三田の宣教者の家が日本支部として利用される。木造2階建てであった事務所は鉄筋6階建ての建物に立て替えられ、1963年10月から再び機能し始める。1971年には静岡県沼津市に建設する支部事務所の設計図が完成し、1972年1月に着工開始。この建物は1973年4月28日に献堂される。1982年には神奈川県海老名市に支部事務所が移転する。<ref>『1998年の年鑑』71-85、111-112ページ、『1978年の年鑑』250ページ、『目ざめよ!』1973年8月22日号4-5ページ</ref>
1926年9月6日、アメリカ在住の日本人、明石順三がものみの塔聖書冊子協会の任命を受けて来日、同社の日本支部として「灯台社」を結成する。翌1927年の初頭に彼は神戸に支部を開設するが、その年の後半には東京の銀座へと移転、さらに荻窪へと移転し、そこに印刷工場を設置した。彼らは聖書を無謬の記録として唯一神を信仰して偶像崇拝を禁じ、また戦争を聖書が唱える殺人罪にあたるとして兵役拒否を唱えていた。
 
1933年5月に[[治安維持法]]違反の嫌疑により明石を含む数名が逮捕されるが、証拠不十分として釈放される。ところが1939年になって明石の息子と宣教者1名が信仰上の理由で徴兵を拒否したことから、日本(6月21日)、台湾(6月22日)、朝鮮(6月29日)の130人の灯台社関係者が一斉検挙され、翌年には強制閉鎖を命じられ、1942年には資産の没収・強制売却処分を受けた。裁判で明石らは自分たちの活動は日本の国家や天皇と矛盾するものではなく、天皇の神的権威を否定しているに過ぎないと述べる一方、現在の日本はこのままでは滅びると唱え、自分はそれを理解していない1億(当時)の国民と戦っていると述べた。その結果、明石らは有罪判決を受け、日本が終戦を迎えるまでその活動は停止状態にあった。<ref>『ものみの塔』1973年9月15日号573-575ページ、『エホバの証人の1998年の年鑑』68ページ、『1988年の年鑑』149ページ</ref>
また、1965年には沖縄にも支部が開設され、沖縄の本土復帰後の1980年までその役割を果たす<ref>『1998年の年鑑』91-93ページ</ref>。
 
[[太平洋戦争]]終結後、明石らは釈放された。1947年に明石は活動再興のための日本支部統括を引き受けるにあたり、本部の[[ネイサン・ノア]]会長に対して協会の有り方に関する公開質問状を8月25日付で送付した。これは、ノア会長ら本部が進める路線が協会の「世俗化」であると批判する内容であった<ref>『日本史大事典』第5巻92ページ、「灯台社」</ref>とされ、これに対しノア会長は「牧師会の会員中より除名」との書状を送付した。<ref>明石自身は自分が任命される前の1926年以降のものみの塔に同意していなかった旨を上奏、これを知った会長らが除名した。「1978年の年鑑」215ページおよび外部リンク参照</ref>これに対して、明石も本部との絶縁を宣言して灯台社は実質上消滅した<ref>『日本史大事典』第5巻92ページ、「灯台社」</ref>。このため、ものみの塔聖書冊子協会は、1949年に新たに宣教者を日本に派遣して新たな日本支部を創設することになる。
現在の日本国内における伝道者数は22万人超であり、日本最大の主流プロテスタントの教団である日本基督教団より信者数は多く、キリスト教系の団体ではカトリックに次いで第2位であると推定される。<ref>この伝道者とは、文字通り伝道者の資格を持つ者の数なので、厳密には信徒数ではない。この数にはエホバの証人と研究している人の数は含まれない。</ref>
 
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
*土肥昭夫「灯台社」『日本史大事典』第5巻、[[平凡社]]、1993年 ISBN 978-4-642-00510-4 P92  
== 外部リンク ==
* [http://www.geocities.jp/todai_sha/events/nenpyo.html 灯台社出来事年表]
* [http://www.geocities.jp/todai_sha/index.html 灯台社を調べるページ]</ref>