「田中一徳」の版間の差分

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{{Infobox baseball player
|選手名 = 田中 一徳
|英語表記 =
|所属球団 =
|背番号 =
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1981|10|28}}
|没年月日 =
|身長 = {{フィートとcm (身長用変換)|5|5}}165
|体重 = {{ポンドとkg (体重用変換)|156}}67
|利き腕 = 右
|打席 = 左
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1999}}
|ドラフト順位 = ドラフト1位
|初出場 = 2000年4月1日(NPB)
|最終出場 = 2004年(NPB)10月16日
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[PL学園中学校・高等学校|PL学園高等学校]]
* [[横浜ベイスターズ]] (2000 - 2006)
* [[ヨーク・レボリューション]] (2007 - 2008)
|選出国 =
|選出年 =
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== 来歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[PL学園中学校・高等学校|PL学園高校]]2年に出場した[[{{by|1998年]]}}の[[第80回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]準々決勝の[[PL学園対横浜延長17回|横浜高校戦]]で[[松坂大輔]]から4安打を放つ。PLの1年先輩[[上重聡]]含む自身の1歳上[[松坂世代]]が半の[[中村順司]]前PL 監督が指揮する会後に[[第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表]]に同学年2年生では同じ外野の[[浦和学院高等学校]][[大島裕行]]と2人のみ選出された。大会では一番打者として活躍し、[[白嗟承]](元[[サンディエゴ・パドレス]])に最も印象に残った打者と言わしめる活躍を見せた。{{by|1999年}}の[[第71回選抜高等学校野球大会]]では準決勝進出。高校通算本塁打は6本だが、そのうち3本はランニングホームランであった。[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で1位指名受け横浜ベイスターズに入団した。PL学園の同期に[[七野智秀]]、[[覚前昌也]]、[[田中雅彦]]がいる
 
=== プロ入り後 ===
[[1999年]]、[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で1位指名受けPL学園高から横浜ベイスターズに入団。PL学園の同期に同ドラフトで横浜に指名された[[七野智秀]](2004年退団)、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]に指名された[[覚前昌也]](2003年退団)、[[近畿大学]]を経てロッテに指名された[[田中雅彦]]がいる。
1年目の{{by|2000年}}から一軍出場を果たし、プロ初ヒットも記録している。また、[[フレッシュオールスターゲーム]]にも出場した。{{by|2002年}}に主にレフトや代走要員として一軍に定着、この年自己最多の112試合に出場。{{by|2004年}}にそれまでの[[スイッチヒッター|両打ち]]をやめ左打席に専念した。{{by|2005年}}はチームが3年連続の最下位でチーム改革が進んだことや、[[野中信吾]]ら俊足のライバルの加入・台頭もあり、自身初のシーズン一軍出場なしに終わる。
 
[[{{by|2006年]]}}も一軍出場はなく9月に戦力外通告を受け退団<ref>[http://www.npb.or.jp/players/2006pn_released.html 2006年度 自由契約選手]</ref>。同年の[[12球団合同トライアウト]]に参加するが、獲得する球団は無くアメリカに渡る。この様子は2007年1月6日に[[TBSテレビ|TBS]]で放映された[[ドキュメンタリー]]番組『[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達]]』で特集された(後述)
===プロ入り後===
1年目の[[2000年]]から一軍出場を果たし、プロ初ヒットも記録している。また、[[フレッシュオールスターゲーム]]にも出場した。
 
[[2007年]]、アメリカ[[独立リーグ]]の[[アトランティックリーグ]]に加盟している[[ヨーク・レボリューション]]に入団。背番号は、日本時代と同じく'''9'''、守備位置は主にレフトでスタメン出場も多く、最終的に110試合に出場。成績は打率.251、打点31、盗塁18を記録した。[[2008年]]も同チームに在籍。しかし出場試合数は57試合と前年より半減。成績も打率.226、打点3、盗塁8と落としてしまった。同年11月に開催された[[12球団合同トライアウト]]に参加するが5打数でノーヒットに終わる。この時[[競輪選手]]のスカウト活動に訪れていた[[中野浩一]]には「ゴムまりのような肉体で競輪選手向きの体つき」として注目された。
[[2002年]]に主にレフトや代走要員として一軍に定着、この年自己最多の112試合に出場。[[2004年]]にそれまでの[[スイッチヒッター|両打ち]]をやめ左打席に専念。
 
結局獲得する球団は現れなかったため現役引退を決意し、その旨をPL学園の先輩である[[桑田真澄]]に報告した。この様子は[[TBSテレビ|TBS]]の『[[NEWS23]]』で放映された。桑田からは「引退でもそれはマイナスということではないし、野球で学んだことを次のステップで生かしていけばいい」という言葉をかけられた。
[[2005年]]はチームが3年連続の最下位でチーム改革が進んだことや、[[野中信吾]]ら俊足のライバルの加入・台頭もあり、自身初のシーズン一軍出場なしに終わる。
 
翌[[2006年]]も一軍出場はなく9月に戦力外通告を受け退団。同年の[[12球団合同トライアウト]]に参加するが、獲得する球団は無くアメリカに渡る。この様子はテレビ番組で特集された(後述)。
 
[[2007年]]、アメリカ[[独立リーグ]]の[[アトランティックリーグ]]に加盟している[[ヨーク・レボリューション]]に入団。背番号は、日本時代と同じく'''9'''、守備位置は主にレフトでスタメン出場も多く、最終的に110試合に出場。成績は打率.251、打点31、盗塁18を記録した。
 
[[2008年]]も同チームに在籍。しかし出場試合数は57試合と前年より半減。成績も打率.226、打点3、盗塁8と落としてしまった。同年11月に開催された[[12球団合同トライアウト]]に参加するが5打数でノーヒットに終わる。この時[[競輪選手]]のスカウト活動に訪れていた[[中野浩一]]には「ゴムまりのような肉体で競輪選手向きの体つき」として注目された。
 
結局獲得する球団は現れなかったため現役引退を決意し、その旨をPL学園の先輩である[[桑田真澄]]に報告した。この様子は[[TBSテレビ|TBS]]の『[[NEWS23]]』で放映された。桑田からは「引退でもそれはマイナスということではないし、野球で学んだことを次のステップで生かしていけばいい」という言葉をかけられた。
 
引退後、「将来は球団オーナーになることが野望」と語っている。
 
==人物・エピソード==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年8月}}
*高校通算本塁打は6本だが、そのうち3本はランニングホームランであった。
*プロ野球史上稀に見る身長の低さであるが、本人はコンプレックスというよりは売りにしており、シーズンオフのテレビ番組では「[[ギザギザハートの子守唄]]」を自分の身長にあてがった替え歌にして歌うこともあった。また、2001年・2002年には[[落合博満]]臨時コーチから指導を受け、外国人選手のようなクラウチング気味のバッティングフォームを取り入れ、打席に入った際の身長はさらに低くなってわずかに130cm程度になっていた。この特異なフォームは球界で話題となり、[[松井秀喜]]やPL学園の先輩である[[清原和博]]らが笑いながら真似していた。
*2007年1月6日に[[TBSテレビ|TBS]]で放映された[[ドキュメンタリー]]番組『[[プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達]]』で横浜を解雇されてから2度の[[トライアウト]]に悪戦苦闘する[[松坂世代]]の選手(実際にはいわゆる松坂世代=1980年度生まれより1学年下で、[[東京ヤクルトスワローズ|東京ヤクルト]]の[[青木宣親]]や[[阪神タイガース|阪神]]の[[鳥谷敬]]らと同年代)として紹介された。番組終盤ではトライアウト後、どの球団からも声がかからなかった田中が桑田と会い、米球界に挑戦する旨を報告する場面もあった。また、1月8日の[[茨城ゴールデンゴールズ]]対松坂大輔率いるチームの親善試合では、松坂チームの9番打者として出場した。
* ヨーク・レボリューションのホームページ上の選手紹介では、「ドラフトで、日本の高校生の全体1位で指名された」「松坂大輔よりも先に指名された」と書かれていたが、いずれも間違いである。(当時のドラフト制度は、高校生の指名が重複した場合クジ引きであり、誰が全体1位ということはなかった。また、松坂は田中一徳の1年前のドラフト指名・入団であった)
* ヨーク・レボリューションでは人気選手の一人で、帽子やTシャツなどのグッズが作られていた。帰国直前には「一徳デー」と称したメモリアルゲームも組まれた。
*公表していた身長は「165cm」だったが、実際の身長は165cmも無かった。
 
== 詳細情報 ==
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|-
|style="text-align:center;"|{{by2|2000}}
|rowspan="5" style="text-align:center;" rowspan="5"|[[横浜ベイスターズ|横浜]]
|37||25||24||5||4||0||0||0||4||0||0||2||0||0||1||0||0||10||0||.167||.200||.167||.367
|-
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=== 記録 ===
* 初出場:2000年4月1日、対[[阪神タイガース]]2回([[横浜スタジアム]])
* 初安打:2000年4月22日、対[[中日ドラゴンズ]]4回([[ナゴヤドーム]]) 7回表に[[鈴木平]]投手から左前安打
* 初本塁:2002点:2001年5月810日、対広島東洋カ阪神タイガス7回で[[山竜士]]投手から。浜スタジアム)
* 初打点盗塁:2001年58101日、対阪神タイガ[[広島東洋カプ]]15回([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])
* 初:2001打:20028518日、対広島東洋カープ5回(広島市民球場) 5回表に[[横山竜士]]から
 
=== 背番号 ===
* '''9''' (2000年 - 2008年)
 
=== 高校時代の戦績脚注 ===
{{Reflist}}
* 1998年 - [[第70回選抜高等学校野球大会]]
**準決勝で[[横浜中学校・高等学校|横浜高]]に3対2で敗戦(18打数7安打 打率.389)
* 1998年 - [[第80回全国高等学校野球選手権大会]]
**準々決勝で横浜高に7対9で敗戦(17打数11安打 打率.647)
* 1999年 - [[第71回選抜高等学校野球大会]]
**準決勝で[[沖縄尚学高等学校・附属中学校|沖縄尚学高]]に8対6で敗戦(16打数5安打 打率.313)
* 通算成績:13試合 51打数23安打 打率.451
 
== 関連項目 ==
* [[兵庫県出身の人物一覧]]
* [[横浜ベイスターズの選手一覧]]
* [[PL学園対横浜延長17回]]
 
{{横浜ベイスターズ1999年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORT:たなか かすのり}}
[[Category:日本の野球選手]]