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'''ハロルド・ピンター'''('''Harold Pinter''', [[1930年]][[10月10日]] - [[2008年]][[12月24日]])は[[イギリス]]の[[劇作家]]・[[詩人]]。男性。[[映画]]の[[脚本]]や[[ラジオ]]の[[台本]]も手掛けた。
夫人は作家[[アントニア・フレーザー]](貴族出身の歴史家)。最初の夫人は、ピンターの初期から中期にかけての作品に多く出演した女優のヴィヴィアン・マーチャント([[1956年]]に結婚し、[[1980年]]に離婚した)。
 
== 経歴 ==
1930年10月10日、[[ロンドン]]東部の[[ハックニー]]で、[[ユダヤ]]系[[ポルトガル人]]の[[プロレタリアート|労働者階級]]の両親のもとに生まれる。若き日に愛読した作家は[[ドストエフスキー]]、[[ジェイムズ・ジョイス]]、[[ロレンス]]、[[ヘミングウェイ]]、[[ヴァージニア・ウルフ]]、[[フランツ・カフカ]]、[[ヘンリー・ミラー]]、[[サミュエル・ベケット]]、[[ランボー]]、[[イェイツ]]など。詩作にふける他方、映画好きのシネフィル少年でもあり、同時代の映画を浴びるほど鑑賞。[[ルイス・ブニュエル]]などのシュールレアリスム映画に強い衝撃を受ける。[[1948年]]には徴兵を忌避して罰金刑を科される。[[1951年]]に舞台俳優となった後、[[1957年]]に戯曲『部屋』で劇作家に転身。[[1960年]]に上演された『管理人』によって地位を確立した
 
説明的な[[台詞]]を嫌い、敢えて観客には(しばしば登場人物にとっても)状況が理解しづらい反=リアリズム的な劇を作った。つまり、しっかりした目的に向かって話が進むのではなく、現実と非現実、現在と過去、理性と狂気、明確と曖昧が縦横無尽に交錯してゆくなかで、「[[キャラクター]]が一人歩きする」のである。そのため、[[不条理演劇]]の大家と評される。また、反=リアリズム的な傾向とともに、政治的な題材の作品も多い
 
[[アラン・エイクボーン]]がピンターの『バースデイ・パーティ』に俳優として出演した時の話によると、エイクボーンは配役について、「この人物はどこの出身で、どこに住んでいて、両親は誰なのかを、教えてくれませんか」とピンターに質問した。ピンターは「余計なことだ。とにかくやるんだ」とだけ言ったのだという。ピンターはこの発言を否定しているが、登場人物の[[設定 (物語)|設定]]を細かく決めることはしなかったことは認めている。作者自身にとっても、何者かわからない人物を「発見」して行くとピンターは表現している。
 
[[反戦]]思想の持ち主であり、[[北大西洋条約機構|NATO]]による[[ユーゴスラビア]][[空爆]]や[[アメリカ合衆国]]による[[アフガニスタン]]空爆に抗議。[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]政権の[[イラク侵攻]]を[[ナチス・ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]に準えたこともあった。また、[[ハリウッド]]の[[赤狩り]]を逃れてヨーロッパにやってきた映画監督[[ジョゼフ・ロージー]]との仕事も名高い
 
米国については、特に[[ニカラグア]]([[イラン・コントラ事件]])、[[チリ]]([[チリ・クーデター]])、[[キューバ]]など、中南米諸国への侵略を繰り返して来たことを強調している。ニカラグアについては、米国に打倒の対象とされた[[サンディニスタ民族解放戦線|サンディニスタ]]政権に味方する立場から、米国と交渉したこともある。
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*誰もいない国(1974年)
*背信/Betrayal(1978年)
*温室(1980年)
*景気づけに一杯(1984年)
*月の光(1993年)
 
=== 映画脚本 ===