「東峰十字路事件」の版間の差分

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その後、反対派の集団は隊員たちが血まみれで倒れ、うめく中を入れ組んだ地形を利用して逃げ去った<ref name="asahi19710916a"/>。午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第2機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第2機動隊が東峰十字路の北側へ到達した時には、反対派は撤収した後であった。また第2大隊のうち36名は、一時的に反対派によって連行されたが、警視庁第2機動隊によって救出された。
 
16日午後から成田署特別捜査本部が行った現場検証では、現場付近で機動隊員たちの叩き割られたヘルメットや、引きちぎられた血ぞめの上着やズボン、血まみれの竹ヤリなどが多数発見された<ref name="yomiuri19710917a"/>。
 
===襲撃を受けた機動隊について===
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===司法解剖===
事件後行われた[[司法解剖]]の結果、死亡した3名の機動隊員のうち小隊長の福島誠一は、[[頭蓋骨]]亀裂骨折、頭頂部から後頭部にかけ[[脳内出血]]、12対の肋骨のうち胸部1本、背中16本が折れ、折れた骨は[[肺]]に突き刺さっていた。このほか顔、頭、左右胸部などに28ヵ所の[[打撲傷]]があった。同小隊隊員の柏村信治は、顔などに2度(水ぶくれができる)から3度(皮膚がただれたり、黒く焦げる)の火傷、頭蓋骨亀裂骨折、胸肋骨2本折損、頭頂部5ヵ所に打撲傷、左右腕、背中に多数の打撲傷があった。また、同じく同小隊隊員の森井信行は頭蓋底骨折、頭部に多数の打撲傷。顔、アゴ、および胸から肩にかけて3度の火傷、左肩及び左右の足に打撲傷があった。3名とも死因は脳ざそうと、脳内出血であった<ref>毎日新聞 1971年9月17日付夕刊より</ref>。
 
=== 捜査・裁判 ===
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北原派反対同盟に所属する3名の被告(うち2名はのち小川派反対同盟へ)は無罪を求めて控訴した。
二審東京高裁は一審判決を支持し(1990年12月17日判決)、3名のうち1名だけが上告したが1995年2月28日、最高裁でも執行猶予付きの有罪判決が確定した。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[10.20成田現地闘争]]
* [[成田空港管制塔占拠事件]]
 
== 脚注 ==
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