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'''稲田 昌植'''(いなだ まさたね、[[1890年]]([[明治]]23年)[[8月28日]] - [[1968年]]([[昭和]]43年)[[11月28日]])は、[[大正]]時代から昭和時代の[[農学者]]、[[政治家]]。稲田家17代当主。[[男爵]]。[[北海道帝国大学]]初代総長[[佐藤昌介]]の子で、稲田家16代当主[[稲田邦植]]の子。妻は[[有馬頼寧]]の次女久米。
 
== 経歴 ==
[[北海道]][[札幌市]]出身。[[札幌農学校|東北帝国大学農科大学]](現[[北海道大学]])卒業。在学中の1912年(明治45年)[[三瓶勝美]]中尉や[[中澤治平]]中尉のスキー講習会に参加し大学にスキー部を創部した。1920年(大正9年)に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]][[教授]]となり、その後[[東京農業大学]]教授となった。[[1925年]](大正14年)[[全日本スキー連盟]](当時は大日本スキー連盟)初代会長に就任(~昭和20年)。
 
1925年3月、[[貴族院 (日本)#華族議員|貴族院男爵議員]]に選出され、[[公正会]]に属し[[1947年]](昭和22年)5月に貴族院が廃止されるまで在任。1933年6月10日、貴族院議員視察団の一員として横浜港より「橫濱丸」で出帆し、サイパン、ヤップ、パラオ、フィリピンなどを視察し、これを「南遊記」にまとめている。[[1936年]](昭和11年)、[[廣田内閣]]で[[拓務省|拓務]][[政務次官]]を務めた。[[太平洋戦争]]後は[[日本大学]]教授となる。昭和43年に78歳で没した。