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== 開戦時の地中海の情勢 ==
欧州随一の海軍国である[[イギリス]]は、地中海においても、西の[[ジブラルタル]]・東の[[アレサンドリア]]・中央の[[マルタ島]]に海軍基地を置き、他を圧倒する存在であった。
 
1939年の第二次世界大戦の勃発後も、[[枢軸国]]のイタリアが参戦しなかったため、地中海で戦闘行為は行われなかった。
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一度はマルタからの引き上げを試みた英国だったが、イタリアの脅威が弱まったため、マルタへ増援を送る事となった。
 
しかし、地中海が完全に英国に支配される事を恐れたドイツが介入し、12月に[[シチリア]]へ空軍を派遣しマルタの英軍を牽制(けんせい)、1941年2月北アフリカへ[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]のドイツアフリカ軍団を派遣した。
 
1941年1月、ジブラルタル・アレクサンドリア双方からマルタへ増援船団を送り込む「[[エクセス作戦]]」が発動されたが、十分な[[戦闘機]]の直援が無い中、ドイツ空軍の[[急降下爆撃機]]の猛攻を受け、アレサンドリアからの部隊は撤退を余儀なくされた。
 
=== ギリシャでの戦い(1941年3月~5月) ===
ドイツのギリシャ侵攻を察知したイギリスは、北アフリカからギリシャに支援部隊を送る事にし、1941年3月ドイツの要請で出動したイタリア艦隊と[[マタパン岬海戦]]が行われ、英軍が一方的に勝利し、支援部隊は[[アテネ]]の外港[[ピレウス]]からギリシャに入った。
 
だが、4月6日ドイツが外交的隷属を拒む[[ユーゴスラビア]]・ギリシャへ侵攻、ピレウス港が空襲を受け使用不能となった。陸戦でも英軍の敗北が続き、4月24日からギリシャ本土から重機材を遺棄してクレタ島へ撤退を開始した。[[クレタ島の戦い]]も英軍の劣勢が続き、5月末にはクレタ島から撤退を開始、一連の撤退劇の中で多数の英艦艇が撃沈・大破し、英軍は危機に瀕した。
 
=== 北アフリカ戦線での独ソ戦開始の影響(1941年6月~1942年5月) ===
1941年6月、ドイツは突如ソ連に侵攻、空軍を地中海から[[東部戦線]]に引き抜いた。ドイツ空軍の脅威が薄らいだため、マルタの少数の艦艇・潜水艦がイタリアからリビアの[[トリポリ (リビア)|トリポリ]]・[[ベンガジ]]へ向かう輸送船団を事態が相次ぎ、英軍が北アフリカでの反攻を本格化し11月の[[クルセーダー作戦]]で、一旦包囲されていた[[トブルク]]を解放し、ロンメルをリビア奥地へ押し戻した。
 
冬季に入ると、ロシアの悪天候では使用できないドイツ空軍が一時的にシチリアに戻り、1942年5月[[ガザラの戦い]]でトブルクが陥落、英軍はアレクサンドリアの目前の[[エル・アラメイン]]に決戦陣地を敷いた。
 
=== エル・アラメイン以後、北アフリカの枢軸軍消滅(1942年6月~1943年5月) ===
追い詰められた英軍はマルタへの海上補給を強化、6月に「[[ハープーン作戦]]」・8月に「[[ペデスタル作戦]]を行い、多大な犠牲を出しながらも中部地中海での制海・制空権を回復し、アレサンドリアで兵器・物資の陸揚げを始めた。逆に枢軸国による北アフリカの補給は滞り、既に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が参戦していたため、英軍には米国から貸与された兵器・物資も加わり、物量で枢軸軍を圧倒し始めた。
 
7月1日ロンメルは英軍陣地へ攻撃をかけたが攻め切れずに中止(アラム・ハルファの戦い)、逆に10月23日英軍が攻撃を開始([[エル・アラメインの戦い]])、アフリカ軍団は壊滅的損害を受け、リビアも捨て、チュニジアへと退却した。