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[[延暦寺]]の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の側近となる。上皇の[[鎌倉幕府]]打倒計画には首謀者の一人として参加。[[承久]]3年([[1221年]])の[[承久の乱]]に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた[[西園寺公経]]父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。
 
6年の潜伏の後、嘉禄3年(1227年)京において謀反を計画しているところを発見され、[[六波羅探題]][[北条時氏]]の近習・[[菅周則|菅十郎左衛門周則]]によって逮捕され、誅殺された(一説に自害したとも)。『[[明月記]]』によると、捕縛された際に自殺し損なった尊長は、「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問いつめる武士たちに「今から死ぬ身であるのに、嘘など言わん」とも述べたという。その3年前における前[[執権]][[北条義時]]の死去がその室[[伊賀の方]]による毒殺であったを示唆したとされる([[藤原定家]]日記の記述による)。また尊長は問いつめる武士たちに「今から死ぬ身発言であるのに嘘など言わん」とも述べたという。このことは現在、義時死後に起こった[[伊賀氏の変]]において尊長の兄弟である一条実雅が将軍候補とされていたことと、関連けて語られることが多い。
 
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