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* 文禄5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[グレゴリオ暦]]1596年[[12月16日]]) 天変地異などの災異のため[[改元]]
* 慶長20年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]](グレゴリオ暦[[1615年]][[9月5日]]) 元和に改元
 
[[豊臣政権]]は自己の権威の維持を図るために[[豊臣秀次]]が自害した文禄4年<ref>『中山家記』文禄4年11月22日条</ref>と[[豊臣秀吉]]が病死した慶長3年<ref>『御湯殿上日記』慶長3年11月10日条・『義演准后日記』慶長3年12月9日条</ref>に朝廷に対して改元を要請したことが知られているが、朝廷はこれを拒んでいる。この時期(豊臣政権)の改元はあくまでも公家側と武家側の意見の一致が必要であり、それが成立したのが後陽成天皇即位に伴う代始改元の動きと豊臣政権による全国平定が重なった「文禄」改元と京都などで地震が相次いだ「慶長」改元のみであったとみられている<ref>神田裕理『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』(校倉書房、2011年) ISBN 978-4-7517-4300-3 第一部第一章「織豊期の改元」</ref>。
 
== 出典 ==