「全日空サッカークラブ」の版間の差分

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1975年に'''横浜サッカークラブ'''に改称。1979年から全日空が資金援助を行い名称も'''横浜トライスターサッカークラブ'''(当時の全日空の主力機であった[[ロッキード L-1011 トライスター]]をもじった)と変更された。[[1984年]]に[[日本サッカーリーグ]](JSL)1部昇格を決めた事を契機に、全日空は完全出資会社「[[全日空スポーツ]]株式会社」を設立し、'''全日空横浜サッカークラブ'''に改称、本格的な経営に乗り出した。
 
しかし1985年シーズンのJSL1部では最下位と低迷を続け、来期に向けた選手との契約問題のもつれからボイコット事件(後述)が発生し選手や関係者が処分される事態に発展した。
 
その後、[[名古屋WESTフットボールクラブ|名古屋相互銀行]]や[[永大産業サッカー部|永大産業]]で選手、指導者経験のある[[塩澤敏彦]]を監督に迎えると、1988年に1部復帰を果たし'''全日空サッカークラブ'''に改称。[[前田治]]や[[フェルナンド・ダニエル・モネール]]らを擁して1988-89シーズンのJSL1部では2位、翌1989-90シーズンでは3位。[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では1988年と1989年に2年連続でベスト4進出を果たした。
 
1991年に塩澤に代わって[[日産自動車サッカー部|日産自動車]]の監督として実績のある[[加茂周]]が監督に就任。加茂は当時世界最先端の戦術であった[[ゾーンプレス]]<ref>[[アリゴ・サッキ]]の下で[[ACミラン]]が世界を席巻した事で知られるが、加茂は著書の中で1989年の[[コパ・アメリカ]]における[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の戦術に強い影響を受けたと語っている。</ref>を導入するため、[[スロベニア]]から[[ズデンコ・ベルデニック]]をコーチとして招聘し戦術の浸透に務めた。
 
中区スポーツ少年団時代から使用していた戸塚グラウンドは2006年シーズンまで[[横浜F・マリノス]]が、2007年から[[横浜FC]]がそれぞれ練習グラウンドとして使用している。