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== 生涯と業績 ==
ホワイトハーストは同名の時計職人の息子として[[チェシャー]]の{{仮リンク|コングルトン|en|Congleton}}に生まれた<ref>この記事では多くを次の資料に拠っている。{{cite DNB|wstitle=Whitehurst, John}}</ref>。正規の教育を僅かに受けた後、息子のホワイトハーストは父から時計職人の技術を教わり、また父は息子の知識欲を励ました。息子は21歳の時に[[ダブリン]]を訪れ、それまで話
1736年、息子のホワイトハーストはダービーで独立して事業を始め、彼ならではの工夫に富んだ機械製品をいくつも製作することで、
1774年、彼は[[ロンドン]]の{{仮リンク|王立造幣局|en|Royal Mint}}に職を得た。1775年、金貨の統制を改善させるための法案が成立すると、ホワイトハースト自身は特に自薦活動はしていなかったのだが、ニューカッスル公の推薦により、貨幣重量の刻印担当者になった<ref>{{Cite web | title=Industrial Revolution: A Documentary History | url=http://www.adam-matthew-publications.co.uk/digital_guides/industrial_revolution/brief%20chronology.aspx | publisher=Adam Matthew Publications | language=英語 | accessdate=2011-07-24}}</ref>。ホワイトハーストはロンドンに移った後、終生そこで科学の研究を続け、(それまで{{仮リンク|ジェームズ・ファーガソン (1710-1776)|en|James Ferguson (1710–1776)|label=ジェームズ・ファーガソン}}の住居だった)フリート・ストリートのコルト・コートの自宅で著名な科学者たちの訪問を受けた。
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1778年、ホワイトハーストは地質学的な地層に関する学説を『地球の原初状態と形成に関する研究』<!-- 邦題は便宜的なものです。2011-07-24 -->という本で発表した。彼がダービーに居た頃から書き始められていたというこの著作の大元の意図とは、地下に眠る有用な鉱物をより容易に発見できるようにするというものだった。彼は自分の研究にあまりに根を詰めたため、健康を損ないがちだった。
1779年5月13日、ホワイトハーストは[[王立協会]]の会員に選ばれた。1783年には[[ジャイアンツ・コーズウェー]]および北アイルランドに残る火山の調査に派遣され、その時の記録は前掲書の第二版に盛り込まれた。1784年頃には聖トマス病院のため換気システムを考案している<ref>{{Citation | last=Bernan | year=1845 | title=History and Art of Warming and Ventilation}} ii. 70</ref>。1787年には『時間測定によって長さ・容積・重量を誤差なく測る試み』<!-- 邦題は便宜的なものです。2011-07-24 -->という本をロンドンで出版した。ホワイトハーストは重量の差を計測することで、地球の形状を求めたいと考え、様々な場所で重い振り子の挙動を調べた。すなわち振り子の長さ、振動の速さ、先端が振れる距離を測った。そしてそれらを、地球が球状だと仮定して計算した場合の理論値と比較した。まず、ロンドンの緯度において 1 秒間隔で振れる振り子の長さを 39.2 インチとすると、1 分間に 42 回振れる振り子の長さは 80 インチ、その倍の速度で振れる長さは 20 インチと計算でき、その差は丁度
1745年1月9日、彼はダービーシャーの{{仮リンク|トラスリー|en|Trusley}}と{{仮リンク|ダルベリー|en|Dalbury Lees}}で教区牧師をしていたジョージ・グレットンの娘、エリザベス・グレットンと結婚した。1788年、フリート・ストリートのボルト・コートにあった自宅でホワイトハーストは没し、{{仮リンク|グレイズ・イン・ロード|en|Gray's Inn Road}}の聖アンドルー墓地で妻の隣に葬られた。夫妻は子供を残さなかった。
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| PLACE OF DEATH =
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{{ダービー博物館・美術館}}
{{DEFAULTSORT:ほわいとはあすと しよん}}
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