「吉良長氏」の版間の差分

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| 戒名 = 新御堂殿長氏公大禅定門
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位]]下、[[上総国|上総]]
| 幕府 = [[鎌倉幕府]]
| 主君 = [[藤原頼経]][[藤原頼嗣|頼嗣]]
*| 氏族 = [[足利氏]]→[[吉良氏#三河吉良氏|吉良氏]]
| 氏族 =
| 父母 = 父:[[足利義氏 (足利家3代目当主)|足利義氏]]、母:家女房
| 兄弟 = '''長氏'''、[[足利泰氏]]、[[吉良義継]]、[[新田政義]]室
| 妻 =
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名前の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子の[[吉良満氏]]が創建した実相寺([[西尾市]])代々の住職の言い伝えでは「おさうじ」と読むのが正しいとされる。
 
母が(正室は[[北条泰時]]の娘)はなかったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の[[今川氏|今川家]]のみが足利宗家継承権を持つことになる。
 
『[[吾妻鏡]]』には[[安貞]]2年([[1228年]])7月23日に将軍[[藤原頼経]]の随兵として登場するのが最初で、以後、[[寛喜]]元年([[1229年]])の流鏑馬の射手、[[相模国]]近国一宮への祈祷の使い、[[嘉禎]]2年([[1236年]])の将軍の随兵、嘉禎3年([[1237年]])の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、[[仁治]]2年([[1241年]])1月2日の[[椀飯]]の記事を最後に『吾妻鏡』から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、[[地頭]]職を務める[[三河国]][[吉良荘]]へ向かったと考えられる。
 
[[建長]]3年([[1251年]])に鶴ヶ崎天満宮([[西尾市]])を造営。[[弘安]]8年([[1285年]])、[[霜月騒動]]で息子満氏を失ったため、嫡孫[[吉良貞義]]を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる。
 
正応3年([[1290年]])6月18日没。享年80。
 
== 関連項目 ==
*[[吉良氏#三河吉良氏|吉良氏]]
*[[今川氏]]
*[[足利氏]]
 
{{DEFAULTSORT:きら おさうし}}
[[Category:足利氏|おさうし]]
[[Category:吉良氏|おさうし]]
[[Category:鎌倉時代の武士]]
[[Category:上総介]]
[[Category:1211年生]]
[[Category:1290年没]]