削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
6行目:
[[1874年]](明治7年)に上京して[[大蔵省]]から[[東京府]]の史職として聘され、東京府地理志編纂総修となる。明治22年([[1889年]])に「[[江戸会]]」を発足させ、[[栗本鋤雲]]、[[内藤耻叟]]、[[高瀬眞卿]]らを幹事として迎え、『[[江戸会雑誌]]』(『[[江戸会誌]]』)を創刊。幕府の制度および沿革、外交、財務、宗教等のほか江戸時代の学術、社会の組織、風俗等江戸時代の歴史を深く掘り下げ、のちに小宮山は『[[江戸旧事考]]』、『[[江戸会編纂雑誌集成]]』を発刊するに至る。旧幕府人たちの江戸への懐古であり、武家生活への郷愁を集成した。
 
[[1890年]](明治23年)に慶應義塾大学部が発足するにあたって講師に就任し、[[1896年]](明治29年)まで在任。法律科・理財科では「日本経済」を、文学科では「漢文学」を担当する。講義の様子は『[[時事新報]]』に掲載されており、[[老子]]や[[呉子]]、[[孫子]]、[[列]]の講義や[[詩経]]の講義等、[[中国古典]]の注釈本を精力的に出版。代表的な著書である『韓非子講義』を公刊した。また、[[慶應義塾]]内にオフィスのあった[[日本亜細亜協会]](Asiatic Society of Japan)内の、古文書機関・[[民族誌委員会]](The Committee of Ethnography)という組織で、その解読に尽力した。『徳川太平記』と[[福澤諭吉]]が尊敬していた[[大槻磐水]]・[[緒方洪庵]]及び[[青木昆陽]]から[[中村敬宇]]までを論じた『洋学大家列伝』は小宮山の没後に書生たちが完成させた。
 
[[1890年]](明治23年)から[[皇典研究所]]の『[[古事類苑]]』編纂に、[[栗田寛]]・[[久米幹文]]・[[小中村義象]]・[[落合直文]]・[[萩野由之]]・[[増田于信]]・[[松本愛重]]・[[宮地厳夫]]・[[深江達広]]・内藤耻叟と共に参加。のち副編修となる。