「明智光秀」の版間の差分

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:* 同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけたところ、「このキンカ頭([[禿頭]]の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ、頭を打たれた(キンカ頭とは、「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることからの信長なりの洒落という説もある)。
:* 丹波[[八上城]]に人質として自身の母親を預けて、身の安全を保障した上で降伏させた元八上城主の[[波多野秀治]]・[[波多野秀尚|秀尚]]兄弟を、信長が勝手に殺害。これにより、激怒した八上城の家臣は光秀の母親を殺害してしまった。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていたと言われる。([[絵本太功記]]による創作とされる)。
:* 武田家を滅ぼした[[徳川家康]]の功を労うため、安土城にて行われた京料理での接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を、「腐っている」と信長に因縁をつけられそれを聞いた家臣が怒って安土城の堀や川に投げ捨てた。魚が腐ってしまい安土城全体が魚臭くなってしまったからとの説もある。また、京料理独特の薄味にしたため、塩辛い味付けを好む尾張出身の信長の舌には合わなかったとも言われている。この一件により、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説魚が腐っている(肴が腐っている)というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説信長自らがわざわざ台所に行き材料の魚鳥を吟味した説などがある
:* 中国2国([[出雲国]]・[[石見国]])は攻め取った分だけそのまま光秀の領地にしてもいいが、その時は[[滋賀郡]](近江坂本)・[[丹波国]]は召し上げにする、と伝えられたこと。([[明智軍記]])
:* [[武田征伐]]の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、[[小姓]]の[[森成利]](森蘭丸)に[[鉄扇]]で叩かれ恥をかいた([[明智軍記]])。