「柳家つば女 (6代目)」の版間の差分

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6代目'''柳家 つば女'''(やなぎや つばめ、[[1938年]](昭和13年)[[8月26日]] - [[2004年]](平成16年)[[6月12日]])は、[[山梨県]][[南都留郡]][[河口湖町]](現:[[富士河口湖町]])出身の[[落語家]]。生前は[[落語協会]]所属。[[出囃子 (落語)|出囃子]]は「梅は咲いたか」。本名は渡辺虎夫。息子は同じく落語家[[柳家小きん (11代目)|柳家小きん]]。[[廓噺]]は一級品。
 
==人物==
[[武蔵野美術大学]][[造形]]学部[[油絵]]学科中退後、落語家になった変り種。そのため落語だけでなく絵画でも才能を発揮しており、彼が描いた絵は高い評価を受けていた。趣味は[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]。やはり[[自転車]]に造詣の深い落語家達とクラブ「落洒会」を作り、会長を務めていた。
 
小きん時代の[[1967年]](昭和42年)に開催された『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])での第一回若手[[大喜利]]に出演しており、[[1969年]](昭和44年)[[11月]]に番組司会が兄弟子[[立川談志|7代目立川談志]]から[[前田武彦]]に交替した際に、レギュラーメンバーに抜擢された。[[1970年]]6(昭和45年)6月までは兄弟子[[柳家さん吉]]と共演していた。[[大喜利 (笑点)|大喜利]]でオレンジの色紋付を着用した人物は彼が最初である。以後、[[1972年]](昭和47年)に[[林家こん平]]が復帰するまでレギュラーを務めた。なお、現在オレンジの着物を着ている[[林家たい平]](こん平の弟子)は、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業しており、つば女にとって大学の後輩にあたる。
 
===エピソード===
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== 略歴 ==
*[[1958年]]2(平成33年)2月 - [[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]に入門し、柳家小助と名乗る。
*[[1963年]]9(平成38年)9月 - 二つ目昇進し、[[柳家小きん]]に改名。
*[[1973年]]9(昭和48年)9月 - 真打昇進。
*[[1980年]]9(平成55年)9月 - 6代目[[柳家つば女]]襲名。
*[[2004年]](平成16年) - [[肝硬変]]で死去。享年65。