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[[File:Marcia Furnilla.jpg|200px|thumb|"Promptuarii Iconum Insigniorum "より]]
'''マルキア・フルニッラ''' (Marcia(Marcia Furnilla), 生没年不詳)[[1世紀]][[ローマ帝国]]の女性。後に[[ローマ皇帝]]となる[[ティトゥス]]の2番目で最後の妻。
 
'''マルキア・フルニッラ''' (Marcia Furnilla) は[[1世紀]][[ローマ帝国]]の女性。後に[[ローマ皇帝]]となる[[ティトゥス]]の2番目で最後の妻。
 
== 家族==
家柄は良く、生家は[[王政ローマ|ローマ王]]であった[[アンクス・マルキウス]]の子孫に当たるマルキウス氏族の[[パトリキ]](貴族)であった。父親のクィントゥス・マルキウス・パレア・スラは、フルニッラの義父となる[[ウェスパシアヌス]]の友人であった。彼女の[[コグノーメン]]の「フルニッラ」は、おそらく母方の家系から取られたものである。[[トラヤヌス]]帝の母である[[マルキア ([[:en:Marcia (mother of Trajan)]]) は姉妹と考えられている。
 
父方のおじのクィントゥス・マルキウス・パレア・ソラヌス ([[:en:Barea Soranus|Barea Soranus]]) は[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員であり、[[いとこ|従姉妹]]にソラヌスの娘マルキア・セルウィリア・ソラナ ([[:en:Servilia (1st century)|Servilia]]) がいた。
 
父方の祖父であるクィントゥス・マルキウス・パレアは26年の補充[[執政官]]で、[[プロコンスル]]として[[アフリカ属州]]に2度赴任している。祖父はアフリカ属州で有力な人物であり、アフリカでの拠点としていた[[レプティス・マグナ]]において「Dei Augusti」または「8月の神」に寺院を献じている。
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マルキア・フルニッラは[[ローマ]]で生まれ育ったと考えられている。63年に、最初の妻と死別したティトゥスと結婚する。おそらくは父親たちがこの結婚を取り決めた。この結婚はティティスの後ろ盾となり、彼の政治的キャリアを後押しした。[[ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス|スエトニウス]]はフルニッラを「とてもよいコネがある」女性と述べている。64年9月17日、[[ユリア・フラウィア]]を出産。彼女が唯一の子供となる。なおユリアの母親はフルニッラではなく、ティトゥスの前妻[[アレキナ・テルトゥラ]]とする説もある。
 
ティティスの最初の結婚と同じように、この結婚も長くは続かなかった。フルニッラの生家は[[ネロ]]帝の抵抗勢力と繋がりがあったために65年のピソの陰謀 ([[:en:Pisonian conspiracy|en]]) の失敗以降はネロ帝に冷遇されていた。ティトゥスは陰謀の嫌疑がかかる人々との関係を避けてフルニッラと離婚し、娘のユリアを引き取っている。これ以降のフルニッラの生涯は伝わっていない。
 
== 系図 ==
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* [https://oncourse.iu.edu/access/content/user/leach/www/c414/flavport.html Statue of Marcia Furnilla, see section 6. Flavian Women, statue J.]
 
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[[Category:フラウィウス家]]