「イサーク・ティチング」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目:
[[画像:NagasakiILN.jpg|right|thumb|180px|ロンドンニュースで紹介された出島のイラスト(London News・1853年3月26日)]]
ティチングは日本のオランダ商館長(カピタン)として[[1779年]]から[[1780年]]、[[1781年]]から[[1783年]]、そして[[1784年]]に派遣された。任期中、日本のオランダ東インド会社商館長の重要性は幕府が推し進める[[鎖国]]政策により高まった。以前は任期が終了するまでは[[キリスト教]]の棄教・改宗を余儀なくされるか、日本に[[帰化]]するか、死刑によって日本から離れるかしかなかった。鎖国下の日本での唯一の例外が[[長崎市|長崎]]にある[[出島]]のオランダ商館であった。オランダ商館はこの複雑な背景の中で巧みに交易を進めることによって、日本がヨーロッパと唯一交易や科学知識を交換するパイプ役を担った。
 
一方、日本の機密を、11代将軍[[徳川家斉]]の[[岳父]]であった[[島津重豪]]を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著「ベンガル航海記」に記載され、[[オランダ東インド会社]]が解散した1799年にパリで出版された。そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある<ref>『島津重豪』1980年 芳則正著 ㈱吉川弘文館発行</ref>。
 
オランダ商館長は名目上、一年に一度の江戸参府を命じられ、江戸にいる間は日本の[[大名]]と同じ立場であった。ティチングは2度の[[江戸]]参府を行い、10代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家治]]と謁見した。また江戸ではや[[蘭学者]]([[中川淳庵]]、[[桂川甫周]]、[[朽木昌綱]]ら)とも積極的に交流した。ティチングは、日本の社会・文化・風俗に深い関心を寄せ、蘭学者らと頻繁に文通を行うとともに、後に日本に関する著作を残した。特にこの頃の[[田沼時代]]の政治・社会情勢や、[[大岡忠光]]などの人物像を書き記したことは特筆に価する。
65 ⟶ 67行目:
*「日蘭交流遺聞 朽木昌綱↔イサーク・チチング交換書簡集」 根本惟明訳著、1998年8月、※自費出版で、[[福知山市]]役所・図書館で購入可能。
*[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/60his/3-3_HONBUN.html#i12 「チチング宛蘭文書簡集」(1785年-1790年)長崎の通詞,[[中川淳庵]],[[朽木昌綱]]ほか]
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==