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== 生涯 ==
=== 前半生 ===
[[1584年]]([[天正]]12年)、[[池田輝政]]の[[長男]]として[[美濃国]][[岐阜]]に生まれる。[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]に父と共に参戦。[[1603年]]([[慶長]]8年)、異母弟の[[池田忠継]]が[[岡山城]]主に任じられたとき、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入った。[[1605年]](慶長10年)、[[従四位下]][[侍従]]に叙任され[[右衛門督]]を兼任した。同年、[[徳川秀忠]]の養女[[鶴姫 (福照院)|鶴姫]]([[榊原康政]]の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。[[1607年]](慶長12年)6月2日、[[武蔵国|武蔵守]]に転任し、[[松平姓]]を賜り「'''松平武蔵守利隆'''」と名乗った。[[1613年]](慶長18年)、父の輝政が死去したため、[[家督]]を継いだ。この時、西播磨3郡([[宍粟郡]]・[[佐用郡]]・[[赤穂郡]])10万石を弟忠継に分与したため、姫路藩の所領は42万石となった。
天正12年([[1584年]])9月7日、[[池田輝政]]の[[長男]]として[[美濃国|美濃]][[岐阜]]に生まれる。
 
慶長5年([[1600年]])9月の[[関ヶ原の戦い]]に父と共に参戦。慶長8年([[1603年]])2月、異母弟の[[池田忠継]]が[[備前国|備前]][[[[岡山藩]]主に任じられたとき、幼年の忠継<ref>このとき忠継は5歳だった</ref>に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。利隆は岡山藩では実質的な[[藩主]]として藩政を担当し、慶長9年([[1604年]])には慶長検地と呼ばれる領内検地を実施した<ref>この慶長検地で私徳(小作料)が否定されて江戸時代の近代的本百姓体制が整備された</ref>。また兵農分離を行ない、岡山の前領主であった[[宇喜多秀家]]や[[小早川秀秋]]らの夫役の廃止など、江戸期における近代的体制の確立が行われている。
[[1614年]](慶長19年)からの[[大坂の役|大坂の陣]]では徳川方に与した。[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)、33歳の若さで病死した。死後、家督は長男の[[池田光政]]が継いだ。
 
[[1584年]]([[天正]]12年)、[[池田輝政]]の[[長男]]として[[美濃国]][[岐阜]]に生まれる。[[1600年]]([[慶長]]510)の[[関ヶ原の戦い]]に父と共に参戦。[[1603年]][[慶長]]8年)、異母弟の[[池田忠継]]が[[岡山城]]主に任じられたとき、幼年の忠継に代わって執政代行として岡山城に入った。[[1605年]](慶長10年)、[[従四位下]][[侍従]]に叙任され[[右衛門督]]を兼任した。同年[[徳川秀忠]]の養女[[鶴姫 (福照院)|鶴姫]]([[榊原康政]]の娘)を正室に迎えて幕府との関係を深めた。慶長12年([[1607年]](慶長12年)6月2日、[[武蔵国|武蔵守]]に転任し、[[松平姓]]を賜り「'''松平武蔵守利隆'''」と名乗った。慶長18年([[1613年]](慶長18年))1月、父の輝政が死去したため、6月に[[家督]]を継いだ。この時、西播磨3郡([[宍粟郡]]・[[佐用郡]]・[[赤穂郡]])10万石を弟忠継に分与したため、姫路藩の所領は42万石となった<ref>これは幕府が[[池田氏]]の勢力を弱めるために領地を分与させたといわれる</ref>
墓所:京都[[妙心寺]]の護国院。[[岡山県]][[和意谷池田家墓所]]。[[兵庫県]][[姫路市]]山野井の国清寺。
 
=== 大坂の役と最期 ===
[[慶長]]19年([[1614年]])からの[[大坂の役|大坂の陣]]では徳川方に与した<ref>利隆は開戦前に[[豊臣秀頼]]から書状と兼光の刀を贈られて味方に誘われたが、拒絶して刀を返上し書状は[[京都所司代]]の[[板倉勝重]]に差し出して恭順を誓った。しかし勝重は書状に開封されたあとがあるのを見て「関東に対する二心がなければ秀頼からの書状は密封したまま差し出すはず。場合によっては返り忠するつもりであったのか」と詰問され、使者は懸命に利隆の潔白を訴えたという</ref>。池田軍は大坂冬の陣の緒戦の尼崎合戦に参加した<ref>この尼崎合戦で[[片桐且元]]への助勢が消極的だったために家康の怒りを招いたが、利隆は要衝の尼崎を堅守するためだったとして懸命に弁明して事無きを得た(『[[埋礼水]]』)</ref>。
 
大坂の役の翌年、元和2年(1616年)6月13日、義弟に当たる[[京極高広]]の[[京都]]四条の屋敷で病死<ref>33歳という若死のため、継母の[[督姫]]に毒を盛られていたという俗説も存在する(毒饅頭事件)</ref>。享年33。死後、家督は長男の[[池田光政]]が継いだ。墓所:京都[[妙心寺]]の護国院。[[岡山県]][[和意谷池田家墓所]]。[[兵庫県]][[姫路市]]山野井の国清寺。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 関連項目参考文献 ==
*[[谷口澄夫]]『池田光政』吉川弘文館([[人物叢書]])、1987年。
*[[大和田城]]
 
{{姫路藩主|池田氏|2代|1613-1616}}